大塩事件研究会

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このブログは、大塩事件研究会の行事予定など、各種お知らせを主として掲載しています。Oosioheihatiroub

大塩の乱に関する諸資料は、当会会員の個人的ホームページ「大塩の乱資料館」に豊富に掲載されていますので、そちらをご覧ください。

同HPには本館(文献・論文・催しなど)、古文書館(画像と釈文)、別館(史跡など画像)がありますが、いずれも本館から入ることが出来ます。
本館のアドレスは:http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/です。

(右の大塩平八郎像は、菊池容斎画 大阪城天守閣蔵です)


大塩平八郎の乱とは


 天保8年(1837)2月19日早朝、大坂東町奉行所の元与力で陽明学者でもあった大塩平八郎中斎(1793~1837)が飢饉の最中幕府の役人と大坂の豪商の癒着・不正を断罪し、摂津・河内・和泉・播磨(摂河泉播)地域の窮民救済を求め、幕政の刷新を期して決起した事件。奉行所の与力・同心やその子弟、近隣の豪農とそのもとに組織された農民ら約300人を率いて「救民」の旗をひるがえし、天満の自宅から大坂城をめざしたが、わずか半日で鎮圧された。乱による火災は「大塩焼け」といわれ、市中の5分の1を焼失した。
 当時配布された「檄文(げきぶん)」は大名から民衆まで密かに写され、また乱の情報は、大塩父子が暫く潜伏し手配されたため、全国に広く伝わり、幕藩体制に大きな衝撃を与えた。明治維新の30年前である。
 乱の参加者はほとんど捕らえられ、獄中で死亡した者が多かった。
 来年2017年は、乱から180年、大塩平八郎ほか関係者多くの没後180年にも当たる。(当研究会発行「大塩の乱のあとをたどる-マップでたどる大塩の乱」から一部修正)

大塩事件研究会のご案内
~大塩の乱を学んで、現代を考えよう~

 「大塩平八郎の乱」は多くの人々によって知られている有名な事件です。当時の幕政を揺り動かし、新しい歴史の流れをつくる契機となったことも大方の認めるところです。この事件をめぐっては、さまざまの記録や伝承があり、大塩は今なお民衆の中に生きつづけている感があります。テレビや新聞で度々取り上げられるのもそのためでしょう。

 この事件の研究については、すでに多くのすぐれた成果がありますが、まだ未開拓の点も多く、人に知られずに、埋もれている史実もかなりあると推測されます。この事件に、直接・間接にかかわった多くの人々に光をあて、当時の社会世相をふまえながら、事件の全貌を明らかにする必要があります。さらにそれが現代の私たちに持つ意味を考える必要を痛感しています。

 このような問題意識から、昭和50(1975)年、「大塩事件研究会」が結成されました。母体は、それ以前20数年にわたって、大塩家の菩提寺である成正寺を中心として、事件関係者の追悼・顕彰をつづけきた「大塩中斎先生顕彰会」です。これに対し本研究会は、上記意味から、追悼・顕彰にとどまらず、事実にもとづいた研究・調査や、その成果の市民への還元など、大阪の学問・伝統を生かした特色ある活動を期しています。現在、研究者・教育者をはじめ、関係者の子孫や、事件に批判的な人も含めて、関心をもたれる市民の方々の参加を得ていますが、さらに多数のご入会をひろくお願いする次第です。

研究会活動内容

①大塩平八郎の伝記、思想、行動の調査研究151128oosiokouenkai2_2
②大塩の直接の門人ならびにこの事件に関係した無告の民衆の実態調査
③幕末天保期の総合的研究
④大塩中斎忌を始めとする各種集会の開催
⑤『大塩研究』を始めとする出版活動   
⑥各種資料の発掘調査
⑦各種諸団体との連絡提携
⑧その他必要な事項151221oosioyomubukai_2

(右写真は上から、講演会、大塩の乱関係資料を読む部会、見学会)


年会費等


一般会員:3000円、賛助会員:10000円
講演会・大塩の乱関係資料を読む部会・見学会参加費は、毎回会員・非会員共 500円
会員には学術誌「大塩研究」(年2回発行)をお送りします(一般会員1部、賛助会員3部)。


会長  
藪田 貫(やぶた ゆたか)
     (兵庫県立歴史博物館館長、関西大学名誉教授)

事務局
150531oosiokengakukai_2
〒530-0053 大阪市北区末広町1-7 成正寺内 大塩事件研究会
Tel 06-6361-6212

(お問い合わせ先 Tel・Fax 06-6877-2590 内田正雄 )

ご入会申し込み用紙、会費振込先等については、別頁に記載しています。矢印をクリックしてください。

以後順次、本研究会の行事予定などを掲載していきます。このページ上・下のリンクバーまたはページ右側の「最近の記事」をクリックしてご覧ください。よろしくお願いします。

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2016年9月26日 (月)

平成28年10月、「大塩の乱関係資料を読む部会」の予定

10月例会予定が下記のように決まりましたのでお知らせします。

日時:10月24日(月) 午後6時30分~8時30分

場所:大阪市立北区市民センター 第2会議室
     北区扇町2-1-27 (Tel 06-6315-1500)

テキスト:「難波美家解(なにわみやげ)」 (古文書) 9枚目左頁最終行「此の詩を述作して・・・」から
      
      「大阪市史史料 近世Ⅱ」(活字)  595ページ下段5行目「一.寺之仮屋居間六畳・・・・」から(前回出来ませんでしたので、同じ所からです)。

講師:本会会長 藪田貫先生(兵庫県立歴史博物館館長、関西大学名誉教授)      

参加費:500円(資料コピー代共)

お問い合せ先: 内田正雄 (Tel 06-6877-2590)

(11月以降の予定: 11月28日、12月19日です。12月は忘年会を兼ねます)

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2016年9月18日 (日)

研究会本会・10月例会はフィールドワークです

10月例会・フィールドワークの詳細が下記のように決まりました。
野外活動に絶好の季節ですが、帽子・飲み物はお忘れなくご参加ください。

                       記

1.日時: 10月23日(日) 13:00~16:30頃

2.集合: 13:00 JR大和路線 志紀駅改札口
  (大阪・天王寺から快速に乗り、久宝寺駅で各駅停車に乗り換えると早い)

  解散: JR八尾駅 16:30頃

3.内容: 「西村履三郎・常太郎ゆかりの地」
       案内人 志村清氏(本会会員)

  今回は「狗賓童子の島」の主人公西村常太郎及び父親で大塩門人の西村履三郎ゆかりの地を歩きます。
  「狗賓童子の島」は飯島和一著、第19回司馬遼太郎賞受賞作品です。
  この地については、本ブログ「大塩ゆかりの地を訪ねて④『八尾に西村履三郎の故地を訪ねる』」でも紹介しています。
      http://oosio-jiken-kenkyuu.cocolog-nifty.com/blog/2016/03/post-e001.html

4.主な見学地
  志紀駅→西村市郎右衛門頌徳碑→弓削霊園→弓削神社(弓削)→聞法寺→神剣神社→五条宮跡→八尾駅(解散)

5.参加費:500円(保険・資料代ほか)

6.お問い合せ先: 内田正雄 06-6877-2590
  当日の連絡:  〃      090-5138-8421

ご参加をお待ちしています。

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2016年7月29日 (金)

平成28年9月、「大塩の乱関係資料を読む部会」の予定

9月例会予定が下記のように決まりましたのでお知らせします。

日時:9月19日(月) 午後6時30分~8時30分

場所:大阪市立北区市民センター 第2会議室
     北区扇町2-1-27 (Tel 06-6315-1500)

テキスト:「難波美家解(なにわみやげ)」 (古文書) 7枚目左頁12行目「天満与力大塩平八郎・・・」から
      
      「大阪市史史料 近世Ⅱ」(活字)  595ページ下段5行目「一.寺之仮屋居間六畳・・・・」から

講師:本会会長 藪田貫先生(兵庫県立歴史博物館館長、関西大学名誉教授)      

参加費:500円(資料コピー代共)

お問い合せ先: 内田正雄 (Tel 06-6877-2590)

(10月以降の予定: 10月24日、11月28日です)

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7月24日に行われた研究会7月例会の様子をご覧ください

7月24日午後1時30分から、成正寺で、帝塚山学院大学教授 福島理子先生による講演「大塩平八郎の詩心」が行われました。P1080851c

乱の指導者として世間的には有名で、謹厳実直な面のみ強調される大塩平八郎が、実は繊細な詩心を持った詩人であったことを、残された詩軸を中心に説明されました。

会場に展示された詩軸3点は、酒井一前会長の遺品です。
岸本隆巳さん(酒井先生の教え子であり、遺品整理に当たられた)のご説明では、蔵書1万点がベルリン国会図書館とボン大学に、古典籍が京都大学図書館に寄贈されました。また、その他の詩軸等が成正寺に寄贈されましたが、その内の3点が今回の教材として使われた訳です。

P1080854b_2

講演内容は、福島先生が「大塩研究」にご執筆いただくことになっていますので、ここでは多くを述べませんが、普段余り目に触れることもない漢詩で、理解が難しいのではないかと心配していた受講生にも分かりやすく、感動的でした。

題材となった大塩の漢詩は、展示3点の他、「洗心洞詩文」から3点の計6点でしたが、それに関連する頼山陽や篠崎小竹の詩も4点取り上げられました。

当時は、大坂の混沌社を中心に詠史詩が盛んでした。詠史詩とは歴史に題材を取りながら、時局を諷刺・慨嘆する漢詩です。大塩の詩も時局柄詠史詩が多いのは当然ですが、その詠み方は情感が豊かです。

春愁や秋愁を詠む詩でも、酒を飲み、春風に吹かれながら川の景色を楽しむ詩や、箕面に紅葉狩りに行った際、誤って枝を折り山僧に縛られた人を助けた詩などを読むと、大塩の人間性が感じられます。
大塩のよく知られている厳しい面は、与力として・教育者としての必要性から出たもので、その裏には繊細な詩心が潜んでいたことを今回の講演でよく理解できました。

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【左の詩・読み下し文】(写真をクリックすると拡大写真が示されます)

世 将に有事ならんとして無倦に至る
五行 乖暌して民飢に泣く
東海 雪中に死馬を餐ひ
空村 眼下に生児を棄つ
春に匝(めぐ)るも 新麦 還(ま)た枯寂
曉を送る 朝暾 何ぞ老衰せる
薪木 
底に含む 星火を点ずるを
阿誰(だれ)か 撲滅せん 心思を悩まするを

 甲子正月十有三日歩野外有所感而餞之應
 平松君需         洗心堂後素

無倦=飽きることなく努力すること、乖暌(かいけい)=道理に背くこと、暾(とん)=あさひ、星火=小さな火 埋み火

【真ん中の詩・読み下し文】

蜀道 塵を茲の山蹕に蒙り
興亡 才かに繋ぐは 魯公の功
祇今 
遠く匝る 行宮の跡
石佛 言う無く 寥として風嘯く

  城州の笠置山に上る 舊製  洗心堂主人

※蒙塵=政権を奪われること、茲=ここ、蹕(ひつ)=天皇の行幸、魯公=楠木正成を暗示する、

【右の詩・読み下し文】

一瓢 景を探りて 春風に酔ふ
酔ひて江塘を踏めば 斜日空し
萬丈の
金龍 動きて浪に乗る
知らず 晴月の正東より上がるを

 春日江頭醉帰偶成  
洗心堂後素

【詩軸ではないが、洗心洞詩文から、世間の大塩像とは異なる一面を示す詩】

箕山の楓を尋ぬるに人の其の一枝を誤るあり。山僧集まりて之を拘へ面縛す、予其の無知なるものの妄作して此に陥るを憫み、且つ僧の為す所の慈ならざるを悪む。故に僧に告げて以て其の囚を釈さしめ、戯れに絶句を賦して其の僧に贈る

律厳法具梵王宮 (律厳にして 法具す 梵王宮)
赤子猶懲縲絏中(赤子 猶ほ懲せらる縲絏の中)
楓葉容看不容損(楓葉 看るを容れて 損ずるを容れずとならば)
明朝定捕五更風 (明朝 定めて捕へん五更の風)

※縲絏(るいせつ)=罪人として捕らわれること、五更=寅の刻 午前3時から5時頃


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2016年7月 3日 (日)

平成28年7月、「大塩の乱関係資料を読む部会」の予定

7月例会予定が下記のように決まりましたのでお知らせします。

日時:7月25日(月) 午後6時30分~8時30分

場所:大阪市立北区市民センター 第2会議室
     北区扇町2-1-27 (Tel 06-6315-1500)

テキスト:「難波美家解(なにわみやげ)」 (古文書) 6ページ1行目「廿日市中先・・・」から
      
      「大阪市史史料 近世Ⅱ」(活字)  593ページ上段13行目「10.大塩の乱で
       類焼した川崎東照宮の記録」から

講師:本会会長 藪田貫先生(兵庫県立歴史博物館館長、関西大学名誉教授)      

参加費:500円(資料コピー代共)

お問い合せ先: 内田正雄 (Tel 06-6877-2590)

(7月以降の予定: 8月はお休みで、9月から再開します)

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2016年6月20日 (月)

「大塩研究」目次・号名一覧

下記の号名をクリックしていただくと、各号の目次がご覧いただけます。

第74号(2016年2月) 

第73号(2015年8月) 

第72号(2015年2月)

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「大塩研究」74号・目次 2016年2月

戦はずして人の兵を屈するは善の善なる者なり・・・・・・・・斎藤正和・・・1


大塩平八郎と藤沢東畡
http://www.cwo.zaq.ne.jp/oshio-revolt-m/ken15.jpg ~洗心洞と泊園書院~・・・・・・・・薮田 貫・・・3


『古本大学刮目』引用姓氏から見た

    大塩平八郎の学問的態度について・・・・・・・・・・森田康夫・・・21


坂本鉉之助俊貞の古郷・信州高遠の鉄砲隊・・・・・・・・・・沢田 平・・・40


大塩ゆかりの地を訪ねて(4)

 「八尾に西村履三郎の故地を訪ねる」・・・・・・・・・・・志村 清・・・45


向江強氏を偲んで・・・・・・・・・・・・薮田
 貴・久保在久・島田 耕 ・・・46


洗心洞通信(
62                                        ・・・58

編集後記                              ・・・65

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「大塩研究」73号・目次 2015年8月

あべのハルカスから時空を超えて・・・・・・・・・・・・・白井孝彦・・・1

 

大塩研究の書誌的考察・・・・・・・・・・・・・・・・・・森田康夫・・・3

 

『全釈拙堂文話』の発刊にあたって・・・・・・・・・・・・斎藤正和・・・48

 

大塩ゆかりの地を訪ねて(3)

 

 「檄文を配った上田孝太郎の故地を訪ねる」・・・・・・・志村 清・・・53

 

大塩と私(19)「澤田平氏に聞く」・・・・・・・・・・・・・・・・・・54

 

会員便り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・67 

 

会計報告・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・69

 

洗心洞通信(61                                       ・・・70

 

編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・83

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「大塩研究」72号・目次 2015年2月

大塩中斎の書幅・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・薮田 貫・・・1


大塩平八郎の乱-その主観的意図と歴史的意義-・・・・・・有光友學・・・2


大塩事件に対処した大坂城代土井利位と

   戊午の密勅降下に関わった同土屋寅直・・・・・・・・菅 良樹・・・30


大塩平八郎建議書の謎に迫る・・・・・・・・・・・・・・・井上 宏・・・69


大塩ゆかりの地を訪ねて(
2

  「宮脇志摩が宮司を務めた泉殿宮を訪ねる」・・・・・・内田正雄・・・80


田結庄千里のこと・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久保在久・・・81


大塩家ゆかりの地、脇町で生まれて・・・・・・・・・・・・二木 実・・・83


長谷川先生との思い出・・・・・・・・・・・・・内田正雄・薮田 貫・・・87


会員便り・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・89


洗心洞通信(60                                      ・・・・90


編集後記・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・100

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「洗心洞通信」号名一覧

下記の号名をクリックしていただくと、記事に飛びます。ご覧ください。

第62号(大塩研究74号)2016年2月

第61号(大塩研究73号)2015年8月 

第60号(大塩研究72号)2015年2月

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2016年6月19日 (日)

洗心洞通信62号(大塩研究74号)2016年2月

◇七月例会
 七月一九日成正寺にて二二名が参加し行われ、松永友和氏(徳島県立博物館学芸員・本会委員)から「天保改革期大坂の人足寄場」と題して講演を頂いた。
「人足寄場」と云えば、寛政二年(一七九〇)、火付盗賊改長谷川平蔵が老中松平定信に建言し、江戸に設置。無宿への授産・更正という無罪の無宿者に対しての知恵伊豆・鬼平の仁政程度の知識しかなかった。
 今回大坂でも代官所の人足寄場が天保一四年(一八四三)に設置されたと、「大坂代官竹垣直道日記」を資料に指摘。村々からの資料により、「人足寄場」の活用を読み解き、歴史的背景も考察された。

当日の参加者は、有光友昭、一瀬雅子、井上宏、内田正雄、奥村勇、奥村喜一、北村静子、木村雅英、斉藤正和、柴田晏男、志村清、白井孝彦、田中忍、土井裕子、中井陽一、中村和子、二木貴久、松井英光、松尾寿、松永友和、薮田貫、山崎弘義計二二名(内田)

◇一〇月例会(フィールドワーク)

 一〇月一一日(日)薄くもりの絶好のウォーク日和にも恵まれ、二六名が参加し行われた。
 
今回はテーマを「大塩平八郎ゆかりの史跡めぐり」と名付け、大塩の史跡・大坂城にくわしい本会委員の志村清氏に案内して頂く。歩き始めてすぐの八軒家船着場跡は、江戸時代には淀川水運の要衝であり、平安時代からは熊野街道の出発点として賑わう。右手に見える「天満橋」は寛永年間から幕府が直接管理し補修した一二の公儀橋の一つ。大塩の時代から幕末にかけての公儀橋、奉行屋敷・与力町の状況を古地図・古い貴重な写真を使っての説明。

大坂城内に入ってからは、専門家である志村氏自身がトレースした「大坂城総絵図(江戸末期)」・天守閣・本丸・各種櫓と現在の姿を見比べる。

長時間にはなったが、参加者の皆さんは志村氏の豊富な知識と資料による案内に十分満足を頂いたと思う。

それにしても平成二七年の流行語大賞「爆買い」の余波か外国人の目立つ、現在の大阪城であった。

 

[主なコース] 天満橋八軒家代官所跡東町奉行所

弓奉行跡(近藤重蔵)京橋口大坂城城代屋敷跡本丸御殿跡加番屋敷跡玉造定番与力柴田勘兵衛屋敷跡JR森ノ宮駅(解散)


当日の参加者は、一瀬雅子、井上宏、上島朱實、内田正雄、北村静子、木村雅英、柴田晏男、志村清、白井孝彦、外村禎彦、竹村恵子、田中忍、寺井正文、土井裕子、中井陽一、中野フサエ、中村和子、長坂保子、名倉延子、二木貴久、深尾健達、福島孝夫、松井勇、松森茂子、安田信之、山崎弘義計二六名(内田)

 

一一月例会

一一月二八日成正寺において例会が行われ、藪田貫氏(関西大学名誉教授・本会会長)から「大塩平八郎と藤沢東畡」と題し講演いただいた。

大塩平八郎と藤沢東畡は、ほぼ同世代であり、大塩が洗心洞を、讃岐から大坂へ来た東畡が私塾を開いたのも、ほぼ同時期である、二人はそれまでの懐徳堂中心の世界に新風を吹き込んだが、同時に漢蘭学の興隆も加わり、大坂の学問世界は活性化していったと述べ、続いて当代の学者・広瀬旭荘、篠崎小竹らの大塩平八郎の乱との関わり、それぞれの思いに触れるとともに、洗心洞に学び、乱後には東畡と交流のあった田結庄千里の生涯を通して当時の大坂の学問世界を活写した。

そして大塩の乱は第二期のピークを迎えていた大坂の学問世界にとっては損失であり、その流れに水をさした格好となった、学者として別の行き方はなかったろうか、それだけ大塩の学問の水準が高かったと結んだ。さらにそのことから大塩平八郎という存在を大阪で回復することの重要性、必要性を加えた。

会場には東畡の出身地である高松の個人蔵になる東畡の書状など古文書が展示され、藪田氏より解説が行われた。

 

当日の参加者は、有光友昭、井上宏、上島朱實、内田正雄、奥村勇、北村静子、斉藤正和、澤田平、志村清、白井孝彦、辻不二雄、寺井正文、土井裕子、名倉延子、橋本久、畑中進、福島孝夫、松井英光、森田康夫、安田信之、藪田貫、山口五十二計二二名

 

大塩の乱の肥後への波紋

熊本日日新聞社では熊日新書というシリーズを発行していて好著が多いが、その中の猪飼隆明『熊本の明治秘史』(一九九九年)で大塩の乱の肥後の一地方への波及について取り上げている。

熊本市河内町船津の尾跡(おあと)という集落にある地蔵堂は、今も地蔵講により年一回の祭りが営まれていて、その祭りの記録である『地蔵講帳』が残されているが、内容は民情にも及んでいるため貴重な資料となっている。『熊本の明治秘史』より該当部分を引用する。

尾跡の『地蔵講帳』も、四ページにわたって、事件をこと細かに書き記している。平八郎が「文才日本に今頃多くはいない」学者であること、「世上飢渇の成行」「大坂町屋飢に及び候者間々多く」という状況を見かねて、「自身の大事な書物等を売り払い、難渋の者」に与えるなどしたこと、挙兵のいきさつ、そして「一向行方分からず、その後奥州・松前の辺に面出したる風聞なり」と記している。事件は「前代未聞のこと」ではあるが、「誠に万民の憐忍び難き候より起こりたるにや」と共感を示している

同書は少し前の発刊であるが、『別冊歴史読本・熊本』(二〇一三年)でも同じ著者の文章の中で取り上げられている。


西條奈加『六花落々』の中の大塩像

三嶋明氏(東京都渋谷区在住)より、西條奈加『六花落々(りっかふるふる)』(祥伝社二〇一四年一二月刊)の中に大塩平八郎が登場しているとの情報をいただいた。

古河藩下級武士の主人公・小松尚七は「何故なに尚七」と綽名されるほどの質問魔で周囲の者から五月蠅がられているが、先手物頭(のち家老)の鷹見忠常(のち泉石)の目に留まり、次期藩主の土井利位の御学問相手に抜擢される。尚七はやがて藩主となった利位とともに雪の結晶の研究に没頭し、『雪華図説』の刊行に漕ぎ付ける。

その二年後、土井利位の大坂城代拝命に伴い大坂に来た小松尚七は書籍商で大塩平八郎と邂逅するのだが、その傲岸な態度に少々面喰いながらも勧められるままに洗心洞に入塾する。やがて尚七は大塩の「治世」の考え方に小さな矛盾を感じ退塾するのだが、その後大塩の乱が勃発するというストーリーである。

大塩の乱に関してこの小説の特徴を云うならば、制圧者側から乱を見ている点である。書中の鷹見忠常の大塩を批判している言葉にそれがよく表れている。

 

早見俊『大塩平八郎の亡霊』

祥伝社文庫・二〇一五年七月刊の時代小説であるが、編集子は著者について知らないので、著者自身のホームページを覗いたところ、一九六一年生まれ、二〇〇七年から執筆活動に専念している作家で、「時代小説とは、歴史的事実に関係なく歴史上の一時代が舞台になった物語で、登場人物や事件などはほぼすべてが創作によるものです。(後略)」と断り書きが記されていた。

本書はシリーズ第三作で、主人公・寺坂寅之助は時代遅れの戦国武者のような武士で得意の鑓を手に悪人を成敗するという内容になっている。著者自身が「肩の凝らない娯楽時代小説です」と言っているように、大塩平八郎の弟子で乱の直前に建議書を持って逃亡した首謀者が幕閣に取り入り、水野忠邦暗殺を企むことをモチーフに、逃亡中の大塩平八郎が乗船しているという風聞のあるモリソン号から逃げ出し海賊行為をする「大塩海賊」、悪徳米穀商に天誅を加える「大塩天狗」が加わり、娯楽性満載の小説となっている。


飯島和一『狗賓童子の島』が司馬遼太郎賞受賞

司馬遼太郎記念財団主催の第一九回司馬遼太郎賞に飯島和一の『狗賓童子の島』が決定した。産経新聞二〇一五年一二月二日号より引用する。(本会会員・志村清氏からの情報提供)

受賞作は大塩平八郎の乱に関係して隠岐島に流された少年を主人公として、幕末から明治初期にかけての同島の激動の時代を描いた歴史小説。「司馬遼太郎もこだわった幕末史に新しい光をあてた」と高く評価された。飯島さんは会見で「従来の『正史』とは違う角度でものを見てみたかった。こういう機会を与えていただき感謝している」と話した。


『狗賓童子の島』時代小説ベスト1

『オール読物』一二月号に「時代小説、これが今年の収穫だ!」という年末特有の企画がある。当代きっての目利きが選んだ絶対読むべきベスト10と副題も付く。

今回は二人お目利きが、それぞれ一〇冊の収穫を選び、選評と簡単な内容を紹介している。選者のひとり時代小説作家末国善己は、十選からあえてベスト1を選ぶなら、徹底した考証と骨太の物語、重厚なテーマが一体となった飯島和一の「狗賓童子の島」を挙げると書いている。(内田)

 


大丸と大塩平八郎(続報)

前号本欄の「大丸と大塩平八郎」で、大塩が乱に当たり「大丸は義商なり、犯すなかれ」と部下に命じたため攻撃目標から外され、事なきを得たことが大丸の社史に載っていると紹介したが、日本経済新聞二〇一五年一二月一一日号の「私の履歴書」欄にJ・フロントリテイリング相談役の奥田務氏が大丸入社時の新入社員研修で同様の話を聞いたことが出てくる。それに対する若き日の奥田氏の気概とその後の成長振りを思わせる記述が関心を惹いたので紹介する。(註・J・フロントリテイリングは大丸と松坂屋の経営統合により設立された持株会社)

経営理念の話もあった。儒学の祖の一人である荀子の言葉から採った「先義後利」というもので、その意味は「企業の利益はお客様と社会への義を貫き、信頼を得ることでもたらされる」。天保八年(一八三七)に大阪で多くの豪商が一揆の焼き打ちに遭った大塩平八郎の乱があったが、大丸は逃れることができた。大丸は徳義を重んじる家風が庶民にも広く知られ、乱の頭領の大塩が「大丸は義商なり、犯すなかれ」と命じて難を逃れたこともある。

先義後利の話を初めて聞いたときに「利益を追求するためにお客さんや社会への言い訳のようなもので詭弁だ」と思った。しかし後に経営者となってすべての経営活動において先義後利の視点を欠くと、必ずと言っていいほどうまくいかなかった。(傍線は編集部)

 


大阪天満宮の御文庫(続報)

前号の本欄にて朝日新聞夕刊の連載コラム『大峯伸之のまちダネ』で「住吉と天満の御文庫と大塩平八郎」について取り上げている記事を紹介したが、その後同紙二〇一五年一二月一七日号の同コラムで大阪天満宮の御文庫に収蔵された書物の曝書(虫干し)の様子に触れているので、その一部を転載する。

2階建ての天満宮の御文庫に入ると、書棚には本がぎっしり積み上がり、文字通り「書林」のようだ。1837(天保8)年、大塩平八郎の乱で建物と蔵書が焼けたが、その後、大阪の出版元が漢籍や和書などを奉納してきた。慶長年間に刊行された古い本も含め、いまでは10万冊余りが収蔵されている。

この日、法被姿の出版協会の人たち40人余りと天満宮の神職らが御文庫から主に漢籍を外に運びだした。別の建物でほこりをはたき、ページをめくって空気にあてる。全部の本の虫干しが終わるまで10年はかかるという気の長い奉仕作業だ。

 


井形正寿氏の反戦への思い(続報)

本誌第七二号の本欄にて元本会副会長の故・井形正寿氏に関して、その特高時代の経験を通じての反戦への思いを島田耕氏(本会会員)が語っている新聞記事を取り上げたが、その後の動きについて島田氏より次の通り情報をいただいたので紹介する。

十一月二三日付信濃毎日で「特高」の連載記事で島田とあってと、連絡があった。九月、共同通信社の記者が東京から井形正寿さんを調べていると訪ねてきた。昨年は東京新聞が、戦後七〇年にむけて特高を取材している、井形正寿についてとやってきた。

大塩事件研究会、大阪民衆史研究会で私は井形さんに親しくしていただいた一人。また、映像による井形さんの証言をと、大阪民衆史研究会の例会で井形さんが話をし、その取材を了承いただき、友人山添哲也やカメラマンが記録した映像が私の手許にある。

井形さんと同世代で大塩事件研究会などで親しかった方々がもういないことから、私は二度の取材を受けたことになる。共同通信社からの連絡はまだないが、信濃毎日紙の他にも、特高特集で井形さんをとりあげていると思う。


 

泉殿宮(いづどのぐう)社殿葺き替え

大塩平八郎の叔父で乱にも深く関わる宮脇志摩が第三二代宮司を務めた吹田市の泉殿宮(大塩研究七二号に訪問記事がある)で、社殿葺き替えを始めとする境内等の整備事業を行う。

ご子孫で第三六代宮司宮脇一彦氏(本会賛助会員)のお話によると、明暦三(一六五七)年に再建された現在の本殿は屋根を銅板に改め五五年経過し、建物全般にも損傷が出始めた。受け継いだものを後世に伝えるため、新築とせず屋根の葺き替えと各所修復・境内整備を行うとのことである。

平成二八年二月着工で一一月竣工の予定。(内田)


会員の訃報向江強氏(元副会長)

二〇一五年九月二〇日午前七時、寝屋川市の小松病院で肺炎のため逝去され、同二二日ご長男正一氏を喪主とする家族葬が同市玉泉院で執り行われた。享年八六。同氏の経歴、本会とのかかわり等については、本稿掲載の追悼記事を参照されたい。

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洗心洞通信61号(大塩研究73号)2015年8月

洗心洞通信61号


◇一月例会
 一月三一日成正寺において例会が行われ、澤田平氏(真田幸村公資料館館長、「開運!なんでも鑑定団」鑑定士、本会会員)から、「大塩先生と天文学」と題して講演いただいた。

よく知られる大塩平八郎肖像画(複製、原本は東北大学図書館蔵)を参照しながら、そこに描かれている渾天儀、象限儀などの天体観測器具について触れ、高名な歴史学者が大塩は天文研究をしていないと言っているが、大塩は確かに戦術上の学問として天文研究をしていた、またこれらの天体観測器具はあとから描き加えられたものという説もあるが、これも誤りであるとの指摘があった。偽書かもしれないとの断りのうえで、大塩の天文研究に関する著書として『天象簡抜(てんしょうかんばつ)』(複製、原本は大阪府立図書館蔵)の紹介もあった。

澤田氏は「文献研究よりもモノ(現物)に基づく研究を中心とし、講演は『動く博物館』と名付け、現物を手に取ってもらうよう心がけている」との方針を持たれ、当日も古文書のほか地雷火や銃砲類など参加者全員が手に取って確認できるよう配慮いただき、理解を深めることができた。

 また大塩平八郎の取った行動について、義挙か、暴挙かという問題提議があり、自分としては尊敬、礼賛はするが、その行動すべてがよい訳ではなく、中には暴挙という面もあったという立場をとるとの表明があった。その理解のためには、大塩の乱を桜田門外の変、寺田屋騒動、天誅組などと比較検討することが重要で、単に義挙とか暴挙とかで片づけるのではなく、自分としては歴史の真実をさらに見極めたいとの熱い抱負を語られた。

 当日の参加者は、有光友昭、泉谷昭、井上宏、内田正雄、小川治海、北村静子、澤田平、柴田晏男、白井孝彦、志村清、神藤勵、竹本章、辻不二雄、土井裕子、中倉篤、二木貴久、橋本暁三、東喜代和、福敬二、前田実夫、松井勇、山口五十二、山崎弘義、山本栄司、吉冨敏朗 計二五名   


◇成正寺法燈継承式
 大塩事件研究会の所在場所でもある「讀誦山 成正寺」様の法燈継承式が、二月二十二日(日)同寺本堂にて執り行われ、本会顧問の第二十世有光友信住職が退任、ご子息有光友昭師が第二十一世住職を継承した。

 式は日蓮宗の本山や干与人等のお上人方、総代をはじめとする檀家の方々、加えて本会からは藪田会長、内田事務局長が出席した。

 式典は日蓮宗の式次第に則り、昇堂の後、第二十世より拂子を託された新住職は力強く奉告文を読み上げ、今後の更なる精進を佛祖三宝に誓った。

本会会員でもある松井英光日蓮宗大阪市宗務所長の祝辞や祝電披露のあと檀家総代の挨拶があり退堂となる。

 この後、会場をリーガロイヤルホテル大阪に移し祝宴が行われ、藪田会長が成正寺と大塩家、大塩事件研究会に触れた挨拶をした。(内田)


◇大塩中斎忌法要・記念講演と総会
 二〇一五年三月二八日午後一時半から成正寺において、同寺主催の「大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要」が有光友昭住職によって営まれ、本堂にて看経の後、墓碑に展墓した。

 その後、本会主催の記念講演会が行われ、森田康夫氏(本会会員)が「大塩陽明学と三宅雪嶺を結ぶもの」と題して講演した。三宅雪嶺(一八六〇~一九四五)は、加賀国金沢の藩医の家に生まれ、草創期の東京大学で哲学を学んだ。一八八八年、志賀重昂、杉浦重剛らと政教社を設立し、雑誌『日本人』(後に『日本及日本人』と改題)に参画、日本主義を標榜する政論家として注目を集めた。森田氏によれば雪嶺の今一つの顔として、東洋哲学を代表する陽明学、とりわけ近世末の大塩平八郎の良知の哲学に着目し、西洋哲学を代表するヘーゲル哲学との対比の中で東西哲学の融合化を進めようとした。それがヘーゲル『精神現象学』に対する『宇宙』にはじまる『東洋の教政対西洋の教政』(法哲学)『人類の生活状態』(精神哲学)『東西美術の関係』(美学)『同時代史』(歴史哲学)として構想されていたことを明らかにされた。しかし雪嶺哲学は学界の長老井上哲次郎を始め哲学研究者からも無視され、発表機関の『日本及日本人』はマイナーな雑誌のために、大塩陽明学を継承する雪嶺哲学は見失われてきた。その意味から近代日本思想史の中に雪嶺哲学を位置づける意義を訴えられた。

 小憩の後、内田正雄事務局長の司会進行で総会が開催された。藪田貫会長の開会挨拶に続き、二〇一四年度事業報告、会計報告があり、土井裕子会計監査委員から会計監査報告がなされた。その後、二〇一五年度事業計画、役員改選の報告の後、閉会挨拶を経て総会は終了した。

本年度は役員・委員の改選時期に当たり、新執行体制は以下の通りとなった。(会長)藪田貫、(副会長)常松隆嗣、(事務局長)内田正雄、(委員)井上宏、柴田晏男、島田耕、志村清、白井孝彦、辻不二雄、西山清雄、福敬二、松井勇、松浦木遊、松永友和、山崎弘義、(会計監査委員)土井裕子、政埜隆雄、(顧問)有光友昭。尚、今回の退任者は、久保在久(副会長)である。

 当日の参加者は、有光友昭、泉谷昭、井上宏、内田正雄、澤田平、酒井妙子、柴田晏男、島田耕、志村清、白井孝彦、荘茂樹、清水玉子、辻不二雄、亭島吉秀、土井裕子、中野フサエ、西山清雄、二木貴久、政埜隆雄、松井勇、松井英光、松浦木遊、松永友和、松森茂子、森田康夫、安田信之、薮田貫、山崎弘義 計二七名


◇五月例会(フィールドワーク)
 五月三一日一三時三〇分JR福島駅を出発。今回のテーマは「大塩平八郎の時代を訪ねる」で、案内役は本会委員の内田正雄氏、山崎弘義氏にご協力いただいた。

 一行は駅から数分のところにある浄祐寺に向かい、酒井一前会長の墓所に詣でた。当寺は酒井前会長の実家であり、現在は実兄が住職を務められている。境内には忠臣蔵の矢頭右衛門七と五大力の墓もある古刹である。次いで堂島川に面して建つ福沢諭吉誕生の地(中津藩蔵屋敷跡)碑を経て、なにわ筋を南下、靭公園にて小憩した。その後、近くの天理教飾大分教会前にある「大塩平八郎終焉の地」碑に至る。碑文の草案は酒井前会長、題字は書道家澤村宗一氏の揮毫で一九九七年に建立されたものである。次に教会裏手にある終焉の地(美吉屋跡)に行く。現在は旧敷地内に法人所有のビル(石本ビル)とマンションが建っているが、大塩父子が匿われていた隠居所はマンションの西南の辺りで、その裏には現在も大阪市の下水道として使われている背割下水(太閤下水)が地下を流れる路地の細い道が残っている。

 一行は大塩平八郎の行迹に思いを馳せながらさらになにわ筋を下り、長堀通りの中央分離帯にある「間長涯天文観測の地」碑に至った。間長涯(重富)は質業を営む裕福な商人で、麻田剛立に天文学を学び、寛政の改暦事業に参加した。長男の重新(しげよし)も父の跡を継ぎ天文学者として名を成したが、大塩には天文学を教えたり、公刊書の蔵板主になるなど密接な関係であった。その後、和光寺、木村蒹葭堂邸跡を経て、最終目的地の土佐稲荷神社に到着した。

 土佐稲荷神社は土佐藩の蔵屋敷内にあった鎮守神であるが、名作『大塩平八郎』を書いた森鷗外には『堺事件』という佳品がある(ともに岩波文庫版に入っている)。慶応四年堺で起こったフランス兵と警備をしていた土佐藩士との武力衝突に材を取ったもので、フランス側の下手人二〇名差し出し要求に対して名乗り出た土佐藩士二五名からの人選を藩主の決断で次のように伝える場面が出てくる。

 「此度差し出す二十人には、誰を取り誰を除いても好いか分からぬ。一同稲荷社に詣って神を拝し、籤引きによって生死を定めるが好い。」

 ここに出てくる稲荷社が現・土佐稲荷神社と思われるが、神社側に記録は残されていない。これにて一七時解散となり参加者は帰途についた。

当日の参加者は、一瀬雅子、井上宏、内田正雄、奥村喜一、木村雅英、酒井妙子、白井孝彦、志村清、神藤勵、田中忍、辻不二雄、中井陽一、中村和子、福島孝夫、藤吉悦子、藤原勝、政埜隆雄、松井勇、山崎弘義、吉川直樹 計二〇名


◇福田世耕について(続報)
 前号本欄の「湯川麑洞と福田世耕」で紹介した福田世耕について、その後いくつか情報が寄せられている。入手順に続報として掲載させていただく。

①前号紹介の際、「湯川と福田の間に直接交流があったかどうかは不明であるが、共に新宮の生まれであり、福田世耕にはある種の共感があったかもしれない」と書いたが、それについて杉中浩一郎氏(和歌山県田辺市在住)より、次の示教をいただいた。

「先号の「洗心洞通信」の「湯川麑洞と福田世耕」には私も関心を持ちましたが、この二人の間には直接の関係はほとんど無いとみられます。福田世耕(いくつもの雅号を持ち、一般には福田静処として知られています)は、慶応元年(一八六五)生まれで、湯川麑洞の方は明治七年(一八七四)に亡くなっているからです。ただ麑洞は明治六年に新宮小学校が設立されて教授に任ぜられていますので、世耕はそのころ同校の生徒であった可能性があります。教師と子弟の関係は別にしても、二人とも熊野の代表的な漢詩人ですから、世耕の方には先輩詩人としての認識があったことは言うまでもありません」

②前号本欄の記事に情報提供いただいた荘茂樹氏(大阪府枚方市在住)より福田世耕についての論文・山本四郎「福田静処(破栗・古道人)小伝―その前半生―」(『神戸女子大学紀要』二六巻文学部篇一九九三年所収)を紹介いただいた。前号掲載以降、「福田世耕とはどのような人ですか」と尋ねられることがあるので、その人となりについて同論文より引用したい。

 「古道人福田静処(慶応元年・一八六五ー昭和一九年・一九四四)は和歌山県新宮の生んだ、隠れたる高雅な文人である。生涯高風を持し、名声を求めず、金のために描かず、ためにその名声の世に顕るることすくなく、八十の生涯を孤高の裡に過ごした。本姓中村氏、のち福田家を継ぐ。十五歳京都に遊学して絵画と詩文を学び、二十歳頃俳句に傾倒したが、その本領は漢詩にあったという。雅友多く、奇行また少なくない。」

 「静処は名は世耕、字は子徳、雅号は静処、別に古道人、また碧翁と号し、俳号は初め破笠、のち杷栗と改め、別に遠人とも称した。」

 世耕は新宮藩士・与力の家に生まれた。一五歳のとき京都に出て数年間、絵画と詩文を学び、帰郷の後数年して上京、中国文学の塾を開いた。三一歳のとき俳句の研究を始め、正岡子規、高浜虚子らと交わった。翌年新聞『日本』に校正係として入社、このとき天田愚庵と出会い意気投合し、その後も交友が続いている。三六歳のとき京都に移り、文人生活を送った。スポンサーも得たようであるが、狷介孤高な生き方のためか、生活苦に悩まされたようである。

 その後荘氏からは、論文・松本皎「桃山泰長老の蓑笠亭主人」(『立命館百年史紀要』第十三号二〇〇五年所収)の中の「六 杷栗と愚庵と蓑笠亭」にも福田世耕について天田愚庵との交流を軸に略述が書かれているとの情報をいただいている。

③二〇一五年二月一七日放送の『開運!なんでも鑑定団』(テレビ大阪:テレビ東京系列)の中の「出張!なんでも鑑定団IN神戸」のコーナーで、「『こどうじんの掛軸』ということ以外、何もわからない」という依頼人が登場し、鑑定を仰いだ。鑑定士の安河内眞美(古美術商店主)によれば、「こどうじん」とは「古道人」であり、「近代南画の大家」である「福田古道人」のことで、独特の色遣い、目に焼き付くような原色などにより米国でも人気が高いという。新宮生まれで、「古道人」は近くの「熊野古道」からきているとの説明もあった。鑑定結果は真作で、依頼人の評価額一〇八万円に対し、一五〇万円の評価となった。

 


◇福田世耕と三宅雪嶺

 前項②にて引用した論文「福田静処(破栗・古道人)小伝-その前半生-」によれば、福田世耕は三宅雪嶺と雑誌『日本』で同僚だったということである。三宅雪嶺は森田康夫氏により、三月の総会記念講演で取り上げられ、また本号巻頭論文の中でも触れられている。これで福田世耕は大塩平八郎に関して、湯川麑洞(七十二号九七頁参照)と三宅雪嶺という二つの情報源を持つことがわかったが、果たして耳に入っていただろうか。上記論文の当該部分を引用する。(傍線は編集部)

 「静処は明治三二年に新聞「日本」に校正係として入社した。同紙は明治二二年に、明治の言論界の雄陸羯南(本名中田実)が創立した国粋振起のための新聞で、子規は明治二五年に社員として入社し、和歌・俳句その他に健筆をふるった外、和歌・俳句の選者でもあった(中略)から、或は静処の入社もその推挙にかかるものであろう。社内では三宅雪嶺や中村不折画伯と机を向いあわせていたという。」


◇今治藩における天保の飢饉
 前号本欄にて「大塩平八郎の乱と今治藩」について紹介したが、同記事を読まれた今治市在住の越智悦夫氏(伊予史談会、今治史談会)より、ご自身が編集・発行された『大山積神社御當記録』(二〇一二年刊)の中に描かれている同地域における天保の飢饉の状況についてご教示いただいた。内容は次の通りである。(いずれも天保八年の記録)

一去申秋ハ、郡中大凶作ニ而、稲作ハ勿論其外諸作、何ニ不寄不作ニ而一統及難渋候。酉夏麦作を相祈候所ニ、又候麦作も半作位与申唱候。是ハ当所ニハ不拘、諸国大不作ニ而有之、申暮ハ村々ゟ作喰年越米等相歎キ出、御上ゟ凡二千俵も村々百姓共へ被下置、右ニ准シ飢人願も過分ニ有之、酉四月中旬迄ハ飢扶持下置候処、四月廿一日ゟ極難渋者、物嘱ひ者等村々ゟ申出、当村明神社ニおゐて御救小屋相懸り、日々粥被下置、漠大成難有事、難尽筆紙、九月壱合宛右粥被下置候所、夫ゟ又壱人前釣五勺も、粥米与して被下置候。尤九月一杯被下置候事。

 一米直段も二俵ニ付、二月銀納当札四百五拾四匁四分、麦も右ニ准シ高値、其外大豆小豆何ニ不寄、喰物ニ相成候品高値ニ而、右御上ゟ御救有之候而も、野辺ヘ飢死有之事。数多之事。

 一猟師町辺、物嘱ひ日々夥敷参り、こまり入申候事。

 一翌子秋ハ大豊年与申唱、九州四国路ハ別而豊年ヲ申沙汰有之、乍併前年不作有之故歟、又大洲辺凶作之趣ニ相聞、上方筋御初米、小廻ニ而(米)直段九月頃迄も四百目程もいたし、殊ニ小前之者共、日用立方必至ニ相逼り候儀ニ候。追々秋作苅入時合、霜月頃ニも相成候ハ、直段引下ケ候与申察候ニ有之、先右荒々於当席、丈略相印置候者也。

 「御當(オトウ)」とは「同族団もしくは地縁共同体としての氏子が祭祀集団を構成し、当番制でその集団が奉斎する神社の祭祀を執行するための組織および行事」のことであり、本記録は慶長年間から大正六年の三二〇年間に及んでいて、地方史のみならず、大塩の乱及びその各地への影響を天保の飢饉の全国的な広がりとの関連で捉えることのできる貴重な史料である。

 神社の現表記名は「別宮大山衹神社」であり、今治市別宮町に所在、四国霊場第五五番札所の南光坊に隣接している。(明治期の神仏分離まで両者は一体であったとも言われている)また、別宮大山衹神社には、「理海尼の石燈籠」と呼ばれる天明三年銘の飢饉記録が刻された珍しい石燈籠も現存している。


◇「拙堂文話」の今日的意義
 齋藤正和氏(本会会員)はこの度、齋藤拙堂『拙堂文話』を全訳注した『全釈拙堂文話』を上梓された(明徳出版社、七月三〇日刊、A5判上製箱入り、六七二頁、定価八千円+税)。詳細は本号所載の氏による「『全釈拙堂文話』の発刊にあたって」を参照いただきたい。

 原著は漢文で書かれたものであるが、周知のごとく日本は前近代において漢文を公式文章語としてきた国柄である(視点によっては敗戦まで続いていた)。江戸後期の外憂内患時代に生きた拙堂にとって文章は形式的なものではなく内容が重要であること、そして文章とは、それを貫く思考が中心となり、気が満ちていることが大切なのであって、修辞はそれを補うものであると主張した。

 『拙堂文話』は武士のために書かれたが、今日武士はいない。しかし今こそ「士」が求められている時代もなく、本書の今日的意義はそこに存在すると思料する。


◇謎解き
 人物伝
 讀賣新聞六月二三日(火)夕刊「ええやん!」欄で『大塩平八郎が選んだ破滅的最期」との記事が半頁に渡り掲載されています。

大坂東町奉行所与力時代の活躍、乱の背景・経過などと「大塩平八郎終焉の地・石碑」の説明。

また「不正告発 江戸に届かず」の見出しで、決起前日に幕府首脳・林述齋・水戸藩主徳川斉昭に送った『建議書』についても触れています。

これには「建議書が物議を醸す中、大坂で乱が起これば幕府も動かざるを得ないと考えた。ただの暴動でなく、計算の上の両面作戦だった」と推測する本会藪田会長のコメントが掲載されています。

(注)見出しの「不正告発 江戸に届かず」、記事中の「この建議書は江戸に届かないまま、長く埋もれていて、内容が知られることはなかった」、また「歴史にイフはないが、もし建議書が江戸に届いていたら・・・」との表現は誤解を生みます。

建議書類の現物は、盗難事故により遅れたものの、大塩父子自決の一〇日以上前に幕府に届きました。しかし秘密裏に処理され、幕政改革に結びつくことはありませんでした。「もし建議書に込めた大塩のこころが幕閣に届き、改革が実行されたなら、大塩父子も本懐を遂げて自決したことになるのに」「その心中は絶望だったろう」というのが藪田会長発言の趣旨です。(内田)


◇住吉と天満の御文庫と大塩平八郎
 大阪の代表的な古社である住吉大社と大阪天満宮には江戸時代中期から大阪の書籍商が初版本を奉納するという、現在の国立国会図書館と同じような仕組みがあり、その収納場所としての「御文庫(おぶんこ)」がそれぞれ現存している。

 五月二二日と二五日の朝日新聞夕刊の『大峯伸之のまちダネ』という連載コーナーでその紹介をしているが、その中に大塩平八郎について触れた部分があるので転載する。

 (五月二二日・住吉大社)「御文庫に収蔵されていた本は、江戸幕府の禁書となった陽明学者の大塩平八郎著『洗心洞劄記』、幕末に米本土に渡り帰国したジョン万次郎の取り調べ記録『漂巽紀略』をはじめ、約五万冊にのぼる。」

 (五月二五日・大阪天満宮)「大阪天満宮でも一七三〇(享保一五)年、天満文庫講という組織ができ、そのころ御文庫が建った。(中略)だが一八三七(天保八)年、大塩平八郎の乱で御文庫の建物と蔵書は焼失した。現在の建物はその後にできた。」(傍線は編集部、大峯伸之氏は朝日新聞社・社会部記者)


◇大塩はんの刀鍛冶
 四月一一日読売テレビ番組「あさパラ!」の天神橋筋商店街を巡るコーナーで、同三丁目の水田國重本店が紹介され、水田裕隆氏(七代目・現当主の水田雄一朗氏のご子息)が包丁などの製品の説明に加え、二代目、三代目店主が大塩平八郎の刀を作っていたことを述べたシーンが放映された。

 同店屋外の展示ショーケースには「大塩平八郎の愛刀」として、その刀の写真が刀匠に関する資料とともに展示されていて、謂わば「まちかど博物館」の観を呈している。大塩平八郎が大阪市民に身近に感じられている例証でもある。近くに来られる機会があれば是非ともご覧いただきたい。

 この刀は『門真町史』(昭和三七年刊)によれば、大塩一党の高橋九良右衛門が乱に参加した際使用したものであるという。また、水田雄一朗氏は『天満人』第二号(平成一五年発行)の「大塩はんの刀鍛冶」で國重本店の由来、大塩平八郎との交流などを語っている。


◇大丸と大塩平八郎
 二〇一五年七月五日読売テレビでクイズ番組『クイズ!アナドレナイ大阪』が放映された。これは大阪市内及び近郊の企業をマイクバスで廻りながら車中でその企業に関するクイズを出題し出演者から回答を得るという趣向の番組である。

 四番目の出題は、「大塩平八郎の   に対する愛情がアナドレナイ!?」というものだが、皆様は   の中には何が入ると思われるだろうか。

 答えは「大丸」。『大丸二百五十年史』によれば、大塩は「大丸は義商なり、犯すなかれ」と部下に命じたという。大丸の創業時からの社是は「先義後利」、つまり「義を果たしたあとに利がついてくる」というもので、ナレーターは「『掛け値なし』などに見られる公平な商売が大塩の心に響いたのかもしれない」と結んでいる。

 番組には、本会会長の藪田貫氏がビデオ出演で登場、人と人の信頼関係=義を重視した大塩には義に厚い商人と厚くない商人が見えていた、また可能性として、大丸と共鳴し合える関係があったと思うとコメントを寄せている。


◇テレビ番組の劇中劇に大塩平八郎が登場
 四月二一日NHKテレビで放映されたドラマ『美女と男子』第二回「大物新人、誕生?」の劇中劇に大塩の乱が取り上げられていた。

 仲間由紀恵扮する主人公はIT企業のキャリアウーマンだが、ある日突然グループ会社の弱小芸能プロダクションに出向を命じられてしまう。エリート意識満々の主人公は、全てが未経験のことばかりで戸惑いの日々を送るが、自身でスカウトした男優を売り出すために奔走、時代劇のオーディションには落ちるものの、そのエキストラに潜り込ませる。その時代劇が大塩の乱である。

 名高達男扮する大塩平八郎が橋の上で役人相手に「大立ち回り」をする背後で、乱に加わった農民が豪商の蔵を襲撃、略奪をするシーンが続いていた。劇中劇の性格上、ドラマのストーリー展開とは直接関係はない場面ではあるが、深読みを許してもらえれば、大塩の乱がこれから起こるであろう主人公たちの数々の困難を隠喩しているのかもしれない。


◇「大塩平八郎の娘・その謎」
 古書市で求めた、脇哲『物語北海道人物誌』(沖積舎一九八一年)の中に「蝦夷流離譚 大塩平八郎の娘・その謎」という章があった。大意は次のとおりである。

 乱の後、大塩平八郎の娘・チヨは越後から北海道の江差に逃れ、同地の分限者・関川与左衛門の庇護を受けた。それから二五年後、江差を訪れた俳諧師・多胡無外は関川家に逗留するが、その際に「大塩平八郎の娘」というチヨに引き合わせられた。二人は結ばれるのだが、正式の入籍は慶応二年(一八六六)という。そして多胡はこれより大塩姓を名乗り、維新後は開拓使函館支庁会計課勤務ののち、函館公園看守、函館八幡宮主典を経て、明治二六年に没している。

 肝心の「娘・チヨ」について著者は「資料は全く乏しい」としながら、格之助の妻である「みね」ではないかという推論を最後に披露している(推論の過程は省略する)。著者はHBC(北海道放送)出版事業の担当課長(当時)。全般に唐突感は否めないが、夫である多胡の経歴などが妙に詳しく現実味があるのでここに記しておく次第である。


◇ソーシャルゲームの大塩平八郎
 ソーシャルゲームのカードに大塩平八郎がキャラクターとして登場しているという情報をいただいた。ネットで当たってみると確かに「大塩平八郎」となっているものの、劇画風で、嫌な言葉だが「イケメン」の若侍が描かれている。残念ながらここに画像を掲載するのは著作権上リスクがあるということなので、ご覧いただけない。

ソーシャルゲームとはパソコンやケータイ(携帯電話のこと)で、SNSを通じて、複数のプレーヤーとコミュニケーションを取りながら楽しむというオンライン上のゲームである。

この大塩平八郎のカードは、『疾風幕末演義』というゲームで使われる「志士」のひとつである。ゲーム内で用いるカードは「物語」で入手可能だが、自分の「志士」を強力にしようと思ったら、別途カードを抽選で購入しなければならない(カプセルトイに似ているので「ガチャ」と呼ばれる)。カードを増やすことにより、志士は「進化」・「強化」することができ、また知り合いと「志士隊」を結成することもできるなど、ゲーム自体が際限無く拡がっていくため高額な課金がされることのないよう注意が必要である。なおカードと言っても、仮想的なものであるから手に取ることができる訳ではない。

以上の編集子の拙い説明でよくわからない方は若年層の知り合いの方にお尋ねすることをお勧めしたい。説明の過誤、不足についてはご寛恕願いたい。


◇木更津古文書サークル
 四月中旬、同会の新沼三正氏から電話を頂き、勉強中の『檄文』が一部抜けており、全文と翻刻文の購入依頼があった。

偶然ではあるが、「大塩の乱関係資料を読む部会」も丁度『檄文』を自主学習中で何かの縁を感じた。

乱当時上総・貝渕藩(請西藩)の藩祖・林肥後守忠英が若年寄の時代であり、大塩平八郎にも関心が深い由。(内田)


◇長谷川先生を偲ぶ会
 本会顧問、「大塩の乱関係資料を読む部会」の講師であった、故長谷川伸三先生の一周忌法要と偲ぶ会が六月七日に行われた。

 会場は先生が発掘・古文書の翻刻に関わった奈良市の璉珹寺(紀寺)。奥様、大阪樟蔭女子大学佐久間貴士教授、教え子、本会から藪田会長他四名など二十名ほどが参加し、在りし日の先生を偲んだ。

 また、長谷川先生らの研究の成果を記録した、『奈良市璉珹寺の歴史と下間家文書目録』の発行が披露された。                      (内田)


◇会員の動静

 島田耕氏は、映画監督として活躍中であるが、この度ドキュメンタリー映画『Report びわ湖赤野井湾 2015』が二年を経て完成した。本映画は本誌七十一号の本欄でも紹介させていただいたが、琵琶湖で最も水質が悪化している赤野井湾(守山市)の現状を伝え、再生にむけていくつかの問題を提起した作品(六七分)である。

 本映画を心待ちにしていた有志が実行委員会を立ち上げ、七月二六日にその完成試写会がライズヴィル都賀山(守山市)にて盛大に開催された。


◇会員の訃報

鈴木 良氏 二〇一五年二月一六日肺炎のため東大阪市の病院で逝去。享年八〇才。本会には二〇〇七年三月入会。元立命館大学教授。歴史科学協議会代表委員、部落問題 研究所理事など歴任。著書に『水平社創立の研究』(二〇〇五年部落問題研究所)など。本会の運営に種々ご協力をいただいた。(久保)

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洗心洞通信60号(大塩研究72号) 2015年2月

洗心洞通信(六〇)


七月例会

 七月二六日成正寺において例会が行われ、淀屋研究会副代表の蒲田建三氏から「「天下の台所大坂」の礎を築いた「淀屋」」と題して講演いただいた。

 冒頭、淀屋橋南詰西側にある「淀屋の碑」について、「往時の橋上の賑いの様子がレリーフで描かれているが、牛車で米俵を運んでいるのは首を傾げざるを得ない。当時は橋を傷めないよう荷物を降ろして運んだ」という指摘があった。シンボル的に描いているのかもしれないが、やはり恒久的な記念碑であるので厳正な記述が相応しいと感じた。

 次いで文化三年(一八〇六)の『増修改正・摂州大阪地図』に基づき、淀屋並びにその周辺の地理を解説され、堂島米市場や淀屋橋、淀屋小路などの位置確認をしたうえで、淀屋初代常安から始まり宝永二年(一七〇五)闕所・所払となる五代広當までの家系図を分家も含めた解説があった。続いて淀屋の業績(中之島開発、青物市、米市、糸割符制など)について触れ、さらには二代言當の事例を挙げ、文化人との交わりを通じて大きな貢献をしたことが述べられた。

 淀屋の闕所は門閥的な初期特権町人から新興町人への交代を象徴する事件であり、これ以降鴻池・住友・三井などの新興町人は「拡大よりも安定」、「攻めの経営よりも守りの経営へ転換」、「経営の多角化よりも一業専心を徹底」するようになっていった。

 但し、四代重當は幕府の動きを察知しており、闕所となる前に番頭・牧田仁右衛門を故郷である倉吉に帰し、「牧田淀屋」(米屋)を名乗らせている。そしてその子孫(仁右衛門の曾孫)が大坂・淀屋橋に進出し木綿問屋を開店、初代淀屋清兵衛と称している。江戸時代を通じて連綿として続いてきた豪商淀屋の数奇な歴史に多くの受講者が興味を覚え、続編の次回開催を望む声が多かった。

 尚、大塩平八郎の乱は四代目淀屋清兵衛のときに発生しているが、『大坂焼失後町人施行人名並出金高』(類焼者への施行銭)の中にその名がある。(銭五〇〇貫文を施行)

 

当日の参加者は、有光友昭、井上宏、内田正雄、奥村勇、奥村喜一、毛糠秀樹、北村静子、齋藤正和、柴田晏男、志村清、白井孝彦、神藤勵、辻不二雄、亭島吉秀土井裕子、橋山英二、福島孝夫、山口五十二、山崎弘義、藪田貫計二〇名


九月例会(フィールドワーク)

 九月二八日フィールドワーク「大塩平八郎ゆかりの史跡上町台地を歩く」を実施した。案内役は本会会員の志村清氏にお願いし、総勢二〇名、集合場所の大阪市営地下鉄谷町線・谷町六丁目駅を一三時四五分に出発した。空堀商店街を東に抜け、最初は坂本鉉之助屋敷跡へ。坂本は大塩平八郎と親交を結んだ人物で、乱当時玉造口与力で乱鎮圧に功があった。現在は公園となり往時を偲ぶものは何もない。
 続いて鉄砲同心屋敷・牧田家に向かう。現在も子孫が居住されていて、時代とともに改修はされているが、往時の面影がよく残っている。六代惣衛門は長興村(現・豊中市)の火薬庫(二〇一二年一一月例会フィールドワークでその跡地を見学している)の警備に出勤し、七代茂兵衛は御用向見習中であったが、乱鎮圧に出勤、大塩方へ銃撃発砲したとのことである。この付近は五十軒屋敷と呼ばれ鉄砲同心屋敷があったところで、志村氏の用意された古写真、古地図を見ながら現況との比較説明を聞くと頭の中に往時の街並みが蘇ってくるようで楽しい。

 続いて全慶寺(城南寺町七丁目)で佐々木春夫の墓に詣でる。大塩門人で、国学者、豪商で猫間川浚渫・開削工事への尽力、天誅組への資金援助で知られる。そこから近くの龍渕寺(城南寺町六丁目)にも同じく大塩門人の秋篠秋足の墓がある。現在は保存のためガラス張りのケースの中に入れられているが、その墓碑に刻まれた碑文で有名である。曰く、大塩平八郎父子は天草から清国へ渡り、最後はヨーロッパまで逃亡したとのこと。所謂「大塩生存説」のひとつである。

 上町筋を渡り、谷町筋を右折した交差点付近は大塩格之助の実家・西田家の墓所があった本照寺跡である。寺は戦災で焼失後、昭和四三年道路拡張に伴い八尾市黒谷へ移っている。谷町筋を渡り少し行ったところにある妙徳寺には海運業で一世を風靡した海商・西村忠兵衛の墓がある。西村は大塩平八郎に傾倒していたという。(詳しくは西村道男『海商三代』中公新書を参照いただきたい)

 そこから南へ下った禅林寺(中寺二丁目)では門人・田結荘千里の墓と「千里先生碑」(藤沢南岳顕彰文)、少し先の大倫寺(中寺二丁目)では坂本鉉之助の墓と「剛毅君之碑銘」(並河鳳来顕彰文)にそれぞれ詣でた。終了予定時間が過ぎ、生国魂神社を右に見ながら、最終目的地である、大塩の愛弟子・松本乾知の墓のある銀山寺に着いた時には閉門となっていたため、一七時一五分、そこで解散となった。

 志村氏の豊富な知識量に驚き、且つ感心しながらの四時間のウォーキングであった。出席者は一様に満足の面持ちで家路についた。因みに参加者の方の万歩計によると当日の総歩行数は約一万三千歩とのことであった。


当日の参加者は、井上宏、上島朱實、内田正雄、金森茂基、紙谷絹子、喜多冨佐子、木村雅英、柴田晏男、志村清、荘茂樹、滝浦登美江、竹村恵子、辻不二雄、土井裕子、中村文韶、二星正樹、二木貴久、水嶋裕子、山崎弘義、吉田昭雄計二〇名

(注)上記以外にも多くの史跡を訪ねたが、紙面の都合上、大塩事件に直接関係のないものについては省略させていただいた。諒とされたい。


一一月例会

  一一月二九日成正寺において例会が行われ、菅良樹氏(淳心学院高等学校)から「大坂城代就任者の基礎的考察天保期の土井利位、嘉永・安政期の土屋寅直の事例を中心に」と題して講演いただいた。

内容については本号掲載の同氏による「大塩事件に対処した大坂城代土井利位と戊午の密勅降下に関わった同土屋寅直」を参照いただきたい。


当日の参加者は、井上宏、内田正雄、小川治海、奥村勇、金森茂基、紙谷絹子、北村静子、澤田平、柴田晏男、白井孝彦、志村清、神藤勵、末廣訂、辻不二雄、土井裕子、二星正樹、橋本暁三、前田実、松浦木遊、村家晃、薮田貫、山口五十二、山崎弘義計二三名


大正期警察官僚の大塩観

 第一次大戦に伴う物価上昇が著しく、これに乗じて暴利を貪る商人らに対し内務省と農商務省は「売買取締令」を、一九一七(大正六)年九月一日付で公布し即日施行された。この取締の陣頭指揮に立つ大阪府の道岡警察部長は、『大阪毎日新聞』(一九一七年九月一日夕刊)の取材に対し、次のように述べた。(一部抜粋)

「此度の新令は国民の生活と重大の関係を有()つてゐるのだから監督当局者は犬の遠吠のやうな生温い手段でなく素面素小手の真剣で斬込んで行かねばならぬ、昔大塩平八郎の行()らうとした事が今日実現されたのである、平八郎を出した大阪において此新令は最も有効に行はれたいと考へる」

現職の高い地位にある警察官僚が、大塩を義人、乱を義挙と評価している点が注目される。(久保)


「なにわ大坂100人選(仮称)プロジェクト」

 公益財団法人関西・大阪21世紀協会は上記プロジェクトを発足、古代から近世にかけて「なにわ大坂」を築いてきた一〇〇人を選抜し、時代背景含めた情報収集を行っている。単なる業績紹介に留まらず、対象人物に関する調査、資料収集、関係者へのヒアリングなど精力的に取り組んでいる。

 大塩平八郎もそのうちの一人に取り上げられている。大塩に関する調査、執筆担当は、橋山英二氏(一般社団法人映像通信・代表理事)であるが、氏は既に本会例会や大塩の乱関連資料を読む部会にも数回取材のため参加されている。

プロジェクトの活動成果は適宜ホームページなどで発信され、最終的には二〇一七年に出版される予定とのこと。今から楽しみな企画である。


井形正寿氏の反戦への思い

 東京新聞二〇一五年一月五日朝刊一面の特集「戦後の地層」・「覆う空気悪しき平和なし」で、長らく本会副会長を務め、二〇一二年七月に亡くなられた井形正寿氏が取り上げられている。井形氏は戦時中の一時期、八尾警察署特高係に勤務し、敗戦直後に焼却寸前の特高資料のうち反戦に関する手紙や葉書の資料を密かに持ち帰り、それらと自身の経験を基に、『「特高」経験者として伝えたいこと』(新日本出版社二〇一一年刊)を上梓されている。

 記事では、井形氏の特高時代の経験を述べるとともに、同氏をよく知る島田耕氏(本会会員)がインタビューを受け、「(井形氏が)あの時代に戻しちゃいけないという一念で語り続けていた」と振り返り、「自分を犠牲にして巨大な幕府権力に抵抗した。大塩事件が私の人生を変えた」と熱弁を振るっていた様子を語っている。

 また最後に、井形氏のドキュメンタリーを撮りたいという島田氏の申し出について触れ、記事は次のように結んでいる。

「一度、本人に断られたが、島田にはちょっぴり未練もある。社会派の作品が影を潜めてしまった今だからこそ。」(島田耕氏からの情報提供)

追記後日、島田氏より知人からほぼ同内容の記事が中日新聞・名古屋版、滋賀版にも掲載されているとの連絡があった旨、報告とともに同紙滋賀版の写しを送付いただいている。


飯嶋和一『狗賓童子の島』

 大塩事件に連座した門弟西村履三郎の長男常太郎が隠岐に流刑され、やがて幕末の隠岐騒動に参加したことを明らかにした森田康夫氏の一連の研究を下敷きにした歴史小説がまた発刊された。飯嶋和一著『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』(小学館、定価二三〇〇円)がそれである。

 帯封の解説によると弘化三年、日本海に浮かぶ隠岐「島後」に、はるばる大阪から流された一人の少年がいた。西村常太郎一五歳。大塩平八郎の挙兵に連座した父履三郎の罪により、六つの歳から九年に及ぶ親類預けの果ての「処罰」だった。

 翌年、一六歳になった常太郎は、狗賓が宿るという「御山」の千年杉へ初穂を捧げる役を、島の人々から命じられる。下界から見える大満寺のさきに「御山」はあったが、狗賓にゆるされた者しかそこに踏み入ることはできなかった。

 この天狗出現の物語は、すでに常太郎が維新の恩赦で隠岐から帰国した時、父履三郎の汚名をそそぐため、当時在阪の文士であった宇田川文海に語るなかで生まれた『浪華異聞・大潮余談』に述べられていた。何れにしろ本書は常太郎を軸として展開された歴史小説として『大塩研究』としても極めて興味深いものがある。


◇飯嶋和一氏の大塩観

 『読売新聞』(二〇一五年二月二日夕刊)に以下の記事が載った。

「森鴎外の「大塩平八郎」などを読む中で、この乱を突発的なものととらえる視点に違和感を抱いたのだ。」(中略)「当時は生存権という言葉はなかったけど(大塩の乱は)それを代弁したようなものだったのではないか。大塩の檄文がそこら中から出てくるのは、全国的にそう思う人がいたからだろうと」。「当時の人々が持っいた思いを普遍的に描く。そのために選んだ舞台が隠岐だった」。(久保)


◇新聞記事・成正寺と大塩平八郎

 産経新聞の二〇一四年一〇月一五日朝刊北摂版の連載『北摂街道を行く33・高槻(亀岡)街道編』に天満東寺町が取り上げられ、「偉人が眠るあの寺この寺」と題し、三ヶ寺の紹介記事が掲載された。うち一ヶ寺は成正寺で、大塩の乱の概要について触れるとともに、「中斎大塩先生墓」、「大塩格之助君墓」及び「大塩の乱に殉じた人びとの碑」が本堂の写真と併せて紹介され、「民衆の味方・大塩平八郎ファンの墓参が絶えない」と結んでいる。

 また本会会員である成正寺・有光友昭氏が顔写真入りで登場、「大塩親子の墓前には、中学生ら若い人の姿も見かけます。『寺町通り』を散策しながら、大阪の歴史を大いに勉強してほしい」と述べている。


◇安積艮斎(あさかごんさい)‐幕末、英才育てた開明の人

 日本経済新聞二〇一四年八月二一日朝刊「文化」欄に安積国造神社第六四代宮司・安藤智重氏による安積艮斎の紹介記事が掲載されている。安積国造神社は艮斎の生家であり、艮斎の父は第五五代宮司である。

 筆者は「艮斎は柔軟性に富み、時代への適応性を重視した開明思想の持ち主だった」といい、朱子学を主としながらも、「他学派でも善い点は認めるべきだ、と記した文章も艮斎は残しており、陽明学などを積極的に摂取。実学を重視した」と述べている。標題の「幕末、英才育てた開明の人」の通り、多くの人材を育てた功績に触れ、門人として、小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、福地桜痴、前島密など蒼々たる顔ぶれを挙げている。

 筆者は艮斎の著作の現代語訳にも取り組み、これまでに『艮斎詩略』、『艮斎文略』を刊行している。また、文中では触れていないが、本会会員の齋藤正和氏との共著『東の艮斎 西の拙堂 対談』(歴史春秋社二〇一二年)も上梓している。


◇『
express』誌の大塩平八郎

 セゾンカードの会員誌『express』二〇一四年一一月号の「賢人の選択」という欄に、泉秀樹(歴史作家)の「大塩平八郎」というエッセイが載っている。大塩を「直参旗本の家柄である」などと首を傾げざるを得ない筆致ではあるが、乱の概要について一通り触れたのち次のように結んでいる。

 「いまの日本は、このままで、いいのだろうか?現代の日本人は、江戸時代の庶民と比較すると、変におとなしすぎはしないか?誰もが、臆病に、事なかれ、と願いつつ、反乱に同調できはしないが、無意識のうちに、平八郎のような激烈な正義の男の、不穏な訪れを待っているような気が、しないでもない。」


近藤重蔵と大塩平八郎の出会い(続報)

 前号本欄で近藤重蔵と大塩平八郎の私的な交流について述べたが、「左遷人事」により大坂に赴任した近藤重蔵の前後の事情については、二〇一四年四月に刊行された、谷本晃久『近藤重蔵と近藤富蔵』(山川出版社・日本史リブレット)で簡潔に描かれており知ることができる。

 また近藤重蔵の大坂御弓奉行としての日常は本書によれば「文字通り城内の弓矢や槍の維持管理であり、重蔵の学知を必ずしも必要とする役務とはいえず、また、それをいかした功績を示す場ともいえなかった。」「よって、大坂時代の事績として語られるのは、勤役に関連するものは皆無である。大阪東町奉行の組与力であった陽明学者大塩平八郎をはじめとする文人と盛んに交友をなしたり、(中略)いずれも私事に発するものである。」想像を逞しくすると、近藤重蔵と大塩平八郎はお互いの鬱積した思いを語り合ったのかもしれない。

 その後、近藤重蔵は「重ねた先例を逸脱した異例な振舞いは公儀の忌避するところとなり、「御役不相応」を理由に役儀が召しあげられるにいたった」。重蔵の大坂勤役は二年に満たなかった。


大塩平八郎の乱と今治藩

 旅行先で書店を覗き、地方出版の書籍で自身の興味のあるものを入手することも旅の楽しみのひとつであると、以前何かの本で読んだ記憶があるが、愛媛県今治市の今治城の売店で求めた『今治城の謎』(土井中照著、メイドインしまなみ事務局二〇〇三年発行)に、「大塩平八郎と今治藩」という一頁の記述があった。乱の概要について触れたのち、「今治藩へは、事件の平定に加勢したことへ、大阪城代から感謝状が寄せられています」と結んでいる。

 この件について、同市出身の谷田茂氏(現在はマレーシアに居住)より、『今治郷土史今治拾遺資料編近世(第三巻)』(今治郷土史編さん委員会編集、一九八七年発行)に次のような出典と思われる記述がある旨教示いただいた。(注・文中「同年」とは「天保八年」のこと)

 一、同年二月十九日、大坂天満与力大塩平八郎父子、其外結党大坂市中火矢ヲ以焼拂、鉄砲打立人ヲ拂及乱妨、行衛不相知相成、人相書ヲ以御尋有之、全町御奉行ヲ恨候ヨリ事起候由、御蔵屋敷ヨリ、御防御人数被差出候、

 一、同年四月廿日、大坂御城代様ヨリ、御留守居御呼出、当二月十九日於大坂、元与力大塩平八郎放火乱妨之節、御人数被差出、骨折候旨御達有之、


湯川麑洞(げいどう)と福田世耕

 以下は九月度例会に参加された荘茂樹氏(大阪府枚方市在住)よりいただいた情報である。

荘氏の家系は香川県観音寺市にあって代々医業に携わってきたが、祖父・荘豊之祐氏は医業の傍ら漢詩を嗜み、多くの漢詩人との交流があり、自宅は漢詩人たちのサロンとなっていたようである。

 最近、氏が実家の整理をしていたところ、漢詩人グループの中で特に親しくしていた福田世耕からの祖父宛の書簡(昭和六年三月十七日付消印)が見つかり、その内容は福田世耕が所蔵する三幅の購入についての打診であった。そのうちの一幅が湯川麑洞の画幅である。書簡には、「湯川麑洞大塩義挙の際塾頭タリシ人水野侯ノ儒医墨竹半切」(傍線・筆者)とある。

 湯川麑洞は『大塩研究』でも度々取り上げられている、和歌山県新宮市出身で洗心洞の都講(塾長)を務めたが、乱の前に郷里新宮へ戻り、難を逃れた人物である。書簡の差出人の福田世耕も同じく新宮の出身で、早くから漢詩人として名を成し、また正岡子規に学んだ俳人でもあった。湯川と福田との間に直接交流があったかどうかは不明であるが、共に新宮の生まれであり、福田世耕にはある種の共感があったかもしれない。

 尚、荘氏によればこの画幅を祖父が購入したかどうかは不明とのことである。


◇杉中浩一郎氏の著書

  永年にわたり本会会員であられた同氏(和歌山県田辺市在住、九二歳)がこのほど『南紀・史的雑筆』を出版された。すでに多くのご著書を出されているが、「ここ三、四年の間に執筆した地方史関係の雑文を主として、以前発表した「稲むらの火をめぐって」などのように、既刊の著書に収録しなかった数編の分をつけ加え」てまとめられた。成石勘三郎の南方熊楠宛の書簡など興味深い論考も紹介されている。お問い合わせは同氏(〒六四六‐〇〇二一田辺市あけぼの四一―五)まで。(久保)


◇NHK学園「古文書講座」教材

 『大塩研究』第三六号(一九九五年一一月発行)にNHK学園「古文書を読む」講座の教として「檄文」のはじめの部分が出題されている旨報告があったが、二〇一四年度受講生の「古文書を読む」基礎コース・第八回レポートでも教材として使われているとの情報が寄せられている。

 また、同講座の機関誌『古文書通信』(第一〇三号・二〇一四年一一月発行)の「古文書ネットワーク・あなたの声」欄には、大阪府在住の受講生から「大塩平八郎檄文を見て、大塩平八郎と守口の白井家が繋がりました。(後略)」との感想が掲載されている。大塩平八郎と檄文に対する根強い関心の深さが窺われる。


◇小林一茶の「世直し」観

 本会会員で二〇一三年七月に急逝された青木美智男氏の遺著『小林一茶』(岩波新書二〇一三年九月刊)は文学的な観点ではなく、歴史学的な観点から一茶の残した句を丹念に論じたものであり、従来の「慈愛に満ちたお爺さんというイメージ」からは、かなり距離を置いた一茶像が浮き彫りにされている。(従来の一茶像は明治期以降に作られたものであるという)

 著者は、「世直しの竹よ小藪よ蝉時雨」という句のように「世直し」という、当時としては「物騒な言葉を、こともなげに句に詠み込んでしまう(一茶の)大胆さに驚かされる」と述べ、また一茶は当時頻発していた打ちこわしにも関心を持っていて、その原因は遺恨による簒奪や暴力ではなく、「社会の混迷にある」と気づいていたと指摘している。そして、「一茶の世直し観は、基本的には「世が直る」と受動的で、自然まかせであるが、一茶にとっては毎年起こる社会不安の連続のなかで、日常用語化していったようだ」と結んでいる。

 終生「庶民とともに生きた一茶ならではの眼差し」とともに「権力や権威に対する反骨精神」を持ち続けた、「新しい」一茶像を知るために一読をお奨めしたい。


大塩平八郎と二宮尊徳

 前号の本欄で「大塩平八郎は身長二一三CM?」というネット情報を紹介したが、その後、同様の問い合せが東京のテレビ局から本会に入っている。テレビ局の質問の出所は定かでないが、雑多な情報の飛び交う現代社会の一面を垣間見たような気がする。

 今回紹介するのは、「YAHOO!知恵袋」上の質問で「江戸時代後期の物語を描くとして、大塩平八郎と二宮金次郎が出会っているという設定はメチャクチャでしょうか?」というもの。回答は一件のみで、要約すると「面識はないが、乱後に二宮は大塩のことを知って興味を持ち、その政治的意味や意義を尋ねる書状を大坂の知人に出している」ということであった。(いずれも二〇一三年一〇月投稿)回答の真偽について編集子は不明であるが、ご教示いただければ幸いである。大塩平八郎と二宮尊徳は、同時代に西と東で、全く異なる手段により「救民」を実践した点に興味を惹かれる。

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2016年6月14日 (火)

7月 大塩事件研究会例会の詳細が決まりました

1.日時 7月24日(日) 午後2時~

2.場所 大塩家菩提寺 成正寺
      大阪市北区末広町1番7号
      電話 06-6361-6212
      地下鉄南森町下車⑥出口北へ一筋目、寺町筋を西へ入る北側

3.講演「大塩平八郎の詩心」 
  
    帝塚山大学 准教授  福島理子(ふくしまりこ)先生

  講演の概要について、福島先生の言葉

  「大塩の詩は今まで、彼の思想や生涯に引きつけられ過ぎてきたのではないだろうか。
  彼の賦した詩を一旦思想や生涯から解放し、その表現によって描かれる世界を存分に味わった上で、
  大塩の人となりにたち戻る。そんな読みを今回呈示したい」。

  また、大塩平八郎関連の「掛け軸」も鑑賞します。

4.参加費  500円

お問い合せ先  内田正雄 06-6877-2590

奮ってご出席のほど、お願いします。

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2016年6月 6日 (月)

平成28年6月、「大塩の乱関係資料を読む部会」の予定

6月例会予定が下記のように決まりましたのでお知らせします。

日時:6月27日(月) 午後6時30分~8時30分

場所:大阪市立北区市民センター 第2会議室
     北区扇町2-1-27 (Tel 06-6315-1500)

テキスト:「難波美家解(なにわみやげ)」 (古文書) 4ページ10行目「天満与力・・・」から
      「大阪市史史料 近世Ⅱ」(活字)  590ページ上段6行目「8.乱の残党・・・」から

講師:本会会長 藪田貫先生(兵庫県立歴史博物館館長、関西大学名誉教授)      

参加費:500円(資料コピー代共)

お問い合せ先: 内田正雄 (Tel 06-6877-2590)

(7月以降の予定: 7月25日(月)、8月はお休みで、9月から再開します)

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2016年5月28日 (土)

BS11尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究 で「大塩平八郎の乱」が放映されました。

既報の通り、BS11「尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究」P1080570b_5
の第33回 腐敗と格差への反逆「大塩平八郎の乱」が5月24日午後9時から1時間に亘って放送されました。

大塩の乱において、
①役人・大塩が幕府にはむかった理由
②なぜ自らの豪邸に火をはなったのか
③事件後の逃亡・・・歴史を変える新事実

これらの謎を、歌舞伎俳優・尾上松也さんと尾上右近さんが古地図を片手にひも解きました。
案内人は当会の藪田会長、内田さん、志村さんです。志村さんはロケのお膳立てに尽力いただきましたが、画面には藪田会長と内田さんだけの登場となりました。

今回放送の概要については、BS11のホームページで、同番組の過去のラインアップに掲載されています。ご覧ください。
http://www.bs11.jp/education/4514/

本欄筆者の感想として、今回番組は、大塩の乱を主題にした従来番組と一味違ったものとなっていました。P1080563b_2

上記③と関連して、乱前日老中に向けて発送された建議書にスポットライトを当てた点が一つです。
幕閣中枢が大坂時代に犯した不正を糾弾し、幕政の刷新を狙ったこと。乱の失敗後すぐ自決せず、美吉屋に潜伏したのは建議書提出の成果を見たかったための確信犯であったことを会長が強調されました。

二つ目は、180回忌法要の様子を映し、今も大塩の遺徳を偲ぶ人たちがいることを示したことです。研究会活動の一端にもライトが当たりました。P1080565b

残念だったのは、字幕等にいくつかの誤りがあったことです。
洗心洞が先心洞になっていた。美吉屋が三吉屋になっていた。淡路町の位置が間違っていた等です。

少し間違いがあったとはいうものの、良い番組でした。

BS11 では 6月4日(土)午後3:00~3:54 に再放送を予定しています。より多くの人の目に触れることを望みます。

写真下二つは、上が大阪城で尾上右近氏に説明する藪田会長、下が造幣局内の与力屋敷で、古地図を指さし説明する内田事務局長です。

2016年5月 9日 (月)

大塩事件研究会紹介のリーフレットを作りました。ご必要な方はお申し出ください

本会を紹介したA4サイズを三つ折りにしたリーフレットを作りました。
ご必要な方は事務局 内田までお電話またはファックスでお申し出ください。
郵送します。(Tel・Fax 06-6877-2590 内田正雄)

リーフレットの表・裏を縮小画像で掲載しますが、画面をクリックしていただくと、大きな画像になりますので、それをA4表・裏に両面印刷していただき、三つ折りにしていただいてもリーフレットとして使えます。
ご利用ください。

BB_2拡大して出てきた画像を右クリックし、出てきたメニューの「名前を付けて画像を保存」を左クリックし、ご自分のパソコンに一旦保存してください。その上で、その画像を呼び出して印刷してください。ブログ上に出てきた拡大画像をそのまま印刷しても正しいサイズで印刷されませんので、ご注意ください。

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5月7日フィールドワークは富岡鉄斎展

研究会本会の5月例会はフィールドワークで、5月7日(土)、兵庫県立美術館で開催されている「生誕180年記念 富岡鉄斎ー近代への架け橋ー展」へ行きました。Tomiokatessaitenpostert1603_t01

何故、富岡鉄斎展へ?
近代文人画の巨匠 富岡鉄斎は大塩平八郎の肖像を所蔵し、大塩の乱に関心を持っていたらしいからです。
有名な菊池容斎画の大塩像は同じものが2点存在します。その内の1点は大阪城天守閣蔵、もう1点は東北大学蔵ですが、後者は富岡鉄斎が所蔵していたものです。
どうして彼がそれほど大塩平八郎に心を寄せたのか、大塩事件研究会員としても、富岡鉄斎に関心を持ってしかるべしと、鉄斎展に出かけた次第です。

富岡鉄斎とは何者?
1836年、大塩の乱前年に京都の法衣商で石門心学者・富岡維叙の次男として生まれました。幼少から国学・儒学・仏教等の学問を広く修め、書画にも親しみ、幕末の動乱期には勤皇学者として国事に奔走し、明治維新後は神官(堺大鳥神社宮司)を経て、89歳で亡くなるまで、文人画家として多くの書画を世に送り出しました。多岐にわたる壮大なスケールの作品は、後世の画家たちにも大きな影響を与えました。
画家として食を得ていても、あくまで学者としての矜持を失いませんでした。
万巻の書を読み、万里の路をゆき、以て画祖をなす というのがモットーでした。

展覧会の構成
鉄斎のモットーに従い、1.万里の路 2.万巻の書 3.画祖となる 4.文人鉄斎の娯しみ 5.画家たちが見た鉄斎 の5構成で約200点の作品・資料が展示されました。

◆当日参加は13名。まず学芸員 飯尾由貴子さんの懇切丁寧なレクチャーを受け、鑑賞しました。予定した時間ではとても足りず延長しましたが、それでも後ろ髪を引かれながらの解散となったようです。自由解散後は皆さん食事や神戸散策を楽しまれたようです。
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2016年5月 4日 (水)

本会藪田会長が吹田歴史文化まちづくりセンターで興味深い講演

本会会長・藪田貫先生が、4月28日(木)、吹田歴史文化まちづくりセンター「浜屋敷」で、講演をされましたが、興味深い内容でしたので、概略紹介します。Hamayasikip1080450

演題は「大塩事件と泉殿宮・宮脇家」

吹田の神社・泉殿宮宮司 宮脇志摩は大塩平八郎の叔父ですが、乱に荷担して処刑されました。
事件と宮脇家さらには吹田という土地との関係を様々な視点から話されました。
会場となった浜屋敷は元庄屋の屋敷を改築した施設ですが、そのお座敷で定員を遙かに超える50数名の聴衆が熱心に受講しました。Hamayasikikouenp1080464

筆者が興味深く思ったのは、
●乱の参加者は血族の禍を覚悟しても参加した。これは個人の信念に基づいた行動で、近代的な要素を持っていること。宮脇志摩は平八郎の叔父であるが、その点において同様である。
与力・同心のふさわしい縁組みは限られ、その中で大塩家と宮脇家の血縁関係ができた。与力・同心は陪臣であり、上司とは一時的なつながりである。同じ与力仲間で探すか、そうでなければ遠方へもふさわしい縁組みを求めた。Hamayasikikouenp1080466
●吹田という土地柄と有力家・橋本家について・・・吹田は輪中であり、権力の興亡から共同体を守る努力を昔から続けてきた。豊臣から徳川への流れをいち早くつかみ、徳川に与する中心となったのが橋本家である。


さらに、大塩平八郎自身については
●菊池容斎画の大塩平八郎像が有名だが、こんな肖像もあると紹介されたのが、このブログでも既に掲載した新発見の肖像掛け軸と中之島図書館所蔵本の挿絵。挿絵の平八郎はランプで読書している。果たしてそんな面で近代との接点があったのか、興味深い。Oosiogazoup1080460
文人としての大塩平八郎を再評価すべきである。
大塩は乱を起こしたことにより、与力としてまた陽明学者として位置づけられている。しかし、頼山陽などから、その詩が高く評価された文人でもある。文人としてのネットワークは各地に及び、吹田地区の有力者ともこの面で交流があった。大塩を文人としてもっと高く評価すべきである。

本当に興味深い講演でした。

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2016年5月 2日 (月)

平成28年5月、「大塩の乱関係資料を読む部会」の予定

5月例会予定が下記のように決まりましたのでお知らせします。

日時:5月30日(月) 午後6時30分~8時30分
    例月第4月曜ですが、本月は第5月曜になっています。ご注意ください。

場所:大阪市立北区市民センター 第2会議室
     北区扇町2-1-27 (Tel 06-6315-1500)

テキスト:「難波美家解(なにわみやげ)」 (古文書) 3ページ3行目から
      「大阪市史史料 近世Ⅱ」(活字)  586ページ上段12行目から
      (前回読めませんでしたので、同じところからです)。

講師:本会会長 藪田貫先生(兵庫県立歴史博物館館長、関西大学名誉教授)      

参加費:500円(資料コピー代共)

お問い合せ先: 内田正雄 (Tel 06-6877-2590)

(6月以降の予定: 6月27日(月)、7月25日(月)、8月はお休みで、9月から再開します)

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