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2016年3月17日 (木)

大塩ゆかりの地を訪ねて④「八尾に西村履三郎の故地を訪ねる」

 河内弓削村(現・八尾市)の豪農で、洗心洞門人の西村履三郎は、天保8(1837)年2月9日に大塩平八郎から渡された施行札を村内で配り、天満で出火の際は駆けつけるよう呼びかけ、乱の準備をしたのち、その前日、2月18日に家を出て、洗心洞に入ります。

 乱当日は夕刻、大塩一隊は早くも敗走となり、大塩平八郎と別れた履三郎は姉ことの嫁ぎ先である堺の医師松浦貫輔宅へ向かいます。ここから履三郎の逃避行が始まります。履三郎は剃髪し僧形となり、貫輔の紹介で伊勢の海会寺へ行きますが、そこから仙台、江戸へと渡り、江戸で客死します。乱から3カ月足らずのことでした。乱に対する幕府の裁定は厳しいものでした。履三郎の江戸の墓は破壊され、屍骸は大坂まで運ばれ処刑されました。さらに土地没収、一家断絶に加え、2人の息子、常太郎、謙三郎についても15歳に到達したとき遠島に処され、後年それぞれ隠岐、五島列島へ流罪となりました。維新後、両名とも許され、再び弓削村へ戻り、一家を再興します。

◆履三郎の故地と墓域の現況2

西村履三郎の屋敷跡はJR関西本線志紀駅の南西徒歩7、8分のところで、現在も子孫の方が居住されています。そこから南に7、8分歩いたところの弓削霊園には息子常太郎が建てた履三郎・由美夫妻、母・十枝、松浦貫輔・こと夫妻など一族の墓がありましたが(右写真)、最近全て撤却され、新しい家族墓に変わりました。母・十枝の墓は履三郎の妻・由美によって建てられたものでしたが、その碑文には「哀女 西村由美」と刻まれていて残された家族の悲哀を語っているようでした。撤却された経緯、事情については不明ですが、気になるところです。

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◆妻・由美の観音堂 

履三郎の妻・由美は乱後出家しますが、維新後戻り、屋敷内に観音堂を建て冥福を祈りました。観音堂は屋敷跡の一角に現存しています(右写真)。履三郎を偲ぶことのできる遺構はこれだけになってしまいました。     (志村 清)


(「大塩研究」第74号 2016年2月刊 より転載)

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