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2018年8月28日 (火)

大塩ゆかりの地を訪ねて(9) 「大塩平八郎と洗心洞・その界隈」

地下鉄南森町駅から国道一号線沿いを東へ十分ほど歩いた造幣局一帯は、江戸時代には一軒当たり五百坪もあった与力役宅が三十軒並んでいたということです。閑静で落ち着いた佇まいの屋敷町であったことでしょう。大塩平八郎は、こういう所で生まれ育ったのですね。

大塩の乱「槐」跡
P1030034b 造幣局北門前に、まだ若い一本の槐の樹が立っています。
当時ここには樹齢二百年の槐の古木が立っていて、乱で砲撃を受けて裂けたと伝わっています。
 今の若木は二〇一〇年に植樹されたものですが、この槐が太く逞しい大木に育つ頃までも、ずっとこの社会が平和であってほしいと願うばかりです。.
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与力役宅門
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 造幣局宿舎通用門から中へ入り、洗心洞跡碑をまずは通り越し、先に与力役宅門の前に立ち、大塩さんの普段の出仕の様子・講義の模様や二月十九日の物々しく緊迫した様相などに思い巡らせました。
  現在残っているのは、東町奉行与力・中嶋藤内宅のものですが、間口が六~七間ほどの重厚な長屋門です。.
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洗心洞跡
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 役宅門裏側の宿舎の一角に、その碑が建っています。
  平八郎は、ここにあった北向きの役宅に住み、与力として活躍しました。
  養子格之助に家督を譲り、隠居してから私塾「洗心洞」を開き、「万物一体」の仁を説きました。
  「入学盟誓八ヶ条」によれば、かなり厳しい教育であったと思われます。
 しかし、あれほどの重大な事件に、多くの門弟が血族の禍も顧みずに付き従ったのですから、やはりその学問探求の姿勢や人柄に、人間的な魅力あふれる人物であったに違いない、と感じました。.
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川崎東照宮
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 洗心洞跡の南、滝川小学校の敷地に乱の時に類焼したと伝わる「川崎東照宮」があったそうです。今は正門前に碑があるのみです。
 本会会員・志村清氏作成の「大阪天満川崎東照宮絵図」によれば、三重の門を厳重に構え、本殿・幣殿・拝殿があり、北西角に勧行堂、南東角には能舞台も設置されていた広大なお宮だったようです。
  又、南門入ってすぐの桜林について「摂津名所図会」には「御例祭四月十七日。此日雑人の参詣を許し給ふ。社頭櫻花多くして、彌生の美艶嬋娟たり」とあり、美しい桜にさぞ人々は賑やかに浮かれたことでしょう。
  話は逸れますが、桜林の西に映画「のぼうの城」で一躍有名になった、埼玉忍藩の蔵屋敷があったそうです。
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. 往時を偲び、多くのことを考えさせられた一日でした。
(土井 裕子・本会会員)

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