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2021年10月 5日 (火)

大塩ゆかりの地を訪ねて・第十二回「太閤(背割)下水施設」

 コロナ禍による大阪市の公共施設の開閉をホームページで確認していて、建設局下水道部からの左記のお知らせを目にした。

 「令和三年四月二六日から当面の間、新型コロナウィルス感染症の拡大防止のため、太閤(背割)下水施設見学を中止させていただきます」というものだ。『太閤(背割)下水』にも説明があり、

「豊臣秀吉による大坂城築城の天正十一(1583)年に原型が造られたと言われている石積の下水溝です。大坂がデルタ地帯にできた低地な土地であったので、道路整備と同時に町屋から出る下水を排水しました。東西の横堀川に囲まれ城下町は碁盤の目に切られ、道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘られました」

 太閤下水は、この度移設した「大塩平八郎終焉の地碑」の元の場所、天理教飾大分教会の裏(美吉屋五郎兵衛宅付近)にも続いている。

 『大塩研究第三九号』(一九九八年二月)に本会元副会長井形正寿氏の「大塩平八郎終焉の地について」という寄稿がある。この中で太閤下水にも触れ、建碑の場所(元・天理教飾大文教会)と美吉屋五郎兵衛宅跡(石本ビル、日紅商事)とは裏側の背割水道(太閤下水道ともいわれる)で接している。背割水道は当初、開渠であったものを大阪市は明治二七年の下水道改良事業の際に、石蓋で暗渠化し、今も幅二メートルの市道下に下水が流れ供用されている。

とある。

 これより先、『大塩研究第二五号』(一九八九年三月)に掲載された井形氏の「美吉屋五郎兵衛と大塩平八郎の関係」の中で次のように推測している。

 美吉屋は染物屋という職業柄、水を大量に使っており、排水に都合の良いように背割下水と建物の内部でつながっていたのではなかろうか。また美吉屋の東三百メートルに東横堀川、南二百五十メートルに阿波座堀川があって美吉屋の背割下水道とつながっていることから、この背割下水道が大塩父子の逃走、潜伏に大きな役目を果たしていたと考えられる。

 また、この推測には後日譚があり、同じ寄稿の中で大塩父子が西横堀川の川岸まで船で来て、川岸から開渠になっている背割下水にはいって、美吉屋に潜入したのではないかという話を新聞記者に漏らしたために、昭和六二年五月十九日付サンケイ新聞に『大塩平八郎“ 秀吉” が手助け?』『太閤下水通り逃走』と大見出し、七段抜きの記事となり報道された。

と書く。

 同紙には相蘇一弘・大阪市立博物館主任学芸員(当時)の話として、「十分考えられることだが、背割水道を明記した文献でも出てくればおもしろいのですが….」とある。

 私は寡聞にして、新しい文献が発見されたとは耳にしていない。また、井形氏自身も平成二十年三月に行なわれた、大塩事件研究会の特別講演の席で「太閤下水通り、大塩逃亡・潜伏」は先走り記事と話されていた。

 太閤(背割)下水は、前掲のように現在は見学出来ないが、コロナ終息後は実際に使用されているものを地上に設置した、のぞき窓から自由に見学出来るとのこと。

見学を希望の方は、事前の申し込みが必要。

 申込先  (財)都市技術センター

 電話    〇六―四九六三―二〇九二

 ファックス 〇六―四九六三―二〇八七

 所在地   大阪市中央区農人橋一―三―三

 交通    メトロ中央・谷町線 谷町四丁目駅から徒歩五分 

 見学    無料

 所要時間 約二〇分程度

                  (内田 正雄)

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