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2022年10月11日 (火)

大塩ゆかりの地をたずねて(13)「奥州仙台 大年禅寺」

『大塩研究』第八六号(二〇二二年三月発行)掲載の「それぞれの最期―大塩平八郎と同志たち―」(藪田貫会長)をお読みになられたでしょうか。大塩の乱関係者の逃亡過程と最期の時・終焉の地が丁寧に辿られているもので、その中の一人の人物が、今回の旅のきっかけとなりました。

それは「それぞれの最期」に記されている二十名のうち最後の人物して登場する弓削村七右衛門こと利三郎。乱の後大塩平八郎らと別れ、各地の知人を頼り、堺→伊勢→仙台→江戸と点々としたのち、江戸神田本町一丁目で病死します。

それを読んだ時、逃避行先に仙台という遠く離れた地が含まれていることに驚きました。もしかしたら「大塩ゆかりの地」の最北端かもしれません。そこで、利三郎が目指した奥州仙台《大念寺》を彼が奥州に着いた頃と同じ初夏に訪ねてみました。

仙台市の地図に「大念寺」は見当たらず、「大年禅寺」という黄檗宗の寺院がありましたので、そこを目標にしました。「大年禅寺」は仙台駅から南へ車で十分ほどのところにあり、東へ数百メートルのところを広瀬川が流れ、北西約三キロメートル先には青葉城があります。現地へ着くと、石段の上に立派な惣門があり、その向こう側にも長い石段が上へと続いていました。

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左:大年禅寺惣門                 右:惣門から続く石段

利三郎は、大塩没後にも生き残った三名のうちの一人で、義兄寛輔の叔父・投伍を頼り、はるばる奥州仙台《大念寺》までやって来るのですが、断られてしまいます。その後江戸の止宿先で病没、その地に埋葬され、関係者の中でただ一人、死後も大坂へ戻ることはありませんでした。

ここが《大念寺》であるとしたら、利三郎は、どのような気持ちで三百段近くあるこの石段を登り、そして、投伍に拒否されたあと、どのような面持ちで下ったのでしょう。往時に思いを馳せながら、この天空へと続くような石段を登ってみました。

現在ここは、大年寺山公園として地元の方の憩いの場となっているようで、早朝にも関わらず、何人もの人とすれ違いました。地元の方に話を伺うと、仙台に「だいねんじ」は他にはなく、《大念寺》は、ここ「大年禅寺」で間違いないだろう、そして、明治維新後、寺域は縮小されたことが案内板にも詳しく書かれている、と教えてくださいました。

その仙台市が設置した案内板を見てみると、次のようにありました。

「(前略)仙台藩四代藩主伊達綱村は隠元禅師が伝えた黄檗宗に深く帰依し、大年寺を一六九七年に創建し、伊達家の菩提寺としました。(中略)この地には二十余の塔頭を持ち、三百人からの僧を擁す仙台藩有数の大寺院があった。(中略)明治時代になり、時の政府による神仏分離・廃仏毀釈運動等で衰退し伽藍のほとんどが失われ、現在は墓所と大年寺惣門がその姿をとどめています」

かなり、壮大な寺院だったようです。残念なことに、案内板に大塩に関する記述はありませんでした。
石段を登った先の旧寺域に往時の面影はなく、伊達家墓所「無尽灯廟」のみがその姿をとどめています。そして、長い石段と伊達家墓所が今と同じ場所に描かれている「大年寺絵図」(享保十九(一七三四)年・仙台市博物館蔵)とともに、享保から大塩や利三郎の生きた天保、そして令和の時代を繋げてくれています。

新緑の中、ここに利三郎が訪れたのだ、との思いを強くし、奥州路の旅を終えました。

(山本珠美)

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