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2023年10月 3日 (火)

洗心洞通信(77)(『大塩研究』89ー2023年9月発行 所載)

◇二月例会

◆塩野てるみ先生による講演会

演題「大塩平八郎と林良斎」

〇令和五年二月四日(土)午後一時半より

於 成正寺

講師に香川県多度津町にお住まいの塩野てるみ先生(弘濱文庫代表)をお招きして『大塩平八郎と林良斎』と題した講演をいただいた。

多度津藩の家老である林良斎は、洗心洞で陽明学を学ぶなど大塩平八郎と深い交流があった。大塩は『良斎は孟子のいわゆる教育することをもって大楽とするに足る天下の一英才』(塩野てるみ『林良斎』)と評している。

詳しくは本号二三頁の「大塩と私(二四)」をご覧ください。

〔出席者〕 計 二六名 

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 講演中の塩野先生

(文・内田正雄、写真・松浦信輝)

 

◇三月例会一八七回忌大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要、記念講演会、総会

三月二五日(土)午後一時三十分より成正寺に於いて、一八七回忌大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要が営まれた。法要の後、帝塚山学院大学教授・福島理子先生による記念講演会、令和五年度大塩事件研究会総会を開催した。

◆法要

有光友昭住職のお導きのもと、成正寺本堂および大塩父子慰霊碑前において、会員他多数の参列者が集うなか、法要が厳かに営まれた。

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 法要の様子

◆福島理子先生による記念講演会

 帝塚山学院大学教授・福島理子先生による「詩に遊ぶ大塩―新出資料が教えてくれること」と題した講演をいただいた。近年、寝屋川市内の旧家で見つかった「大塩平八郎漢詩屏風 一隻 八曲」にある漢詩と刊本『洗心洞詩文』のものとを比較し、その違いから大塩の思いを語られた。第五扇の屏風漢詩には橋本(忠兵衛)宅の名があるが、刊本では友人宅となっている。第五扇にある「藥花」(芍薬)は、刊本では「薫蘭」となっているが、蘭は中国楚の公子屈原が好んだ花である。但し、屈原が『離騒』の中でうたう蘭は、キク科のフジバカマを指し、清らかな香りに清廉潔白を託す。屈原は楚の王を何度も諫めるが誰にも理解してもらえず、追放され、汨羅江に身を投げた。大塩は自らの境遇を屈原に重ねているという。他にこの研究のために購入された「大塩平八郎七言絶句二首詩軸」を会場に展示し、その内容についても解説していただいた。 
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 講演中の福島先生

◆総会

 法要及び講演会に続いて総会を開催。令和四年度事業報告、会計報告、会計監査報告及び今年度事業計画報告が行われた。 

〔出席者〕 計 三六名 (文、写真・松浦信輝)

 

◇五月例会 フィールドワーク「兵庫津ミュージアム観覧と兵庫津を歩く」

 五月二一日(日)午後一時三十分より、神戸市兵庫区でフィールドワークが開催された。案内人は兵庫県企画部地域振興課歴史資源活用専門官の山下史朗氏。

 JR三ノ宮駅中央口コンコースに集合後、神戸市営地下鉄海岸線を利用して中央市場前駅まで移動。まず、そこから徒歩五分の兵庫県立兵庫津ミュージアムの「ひょうごはじまり館」に移動して山下氏の説明を受けながら常設展示を見学した。

 兵庫津は大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれた長い歴史を持つ港町である。古代の自然が天然の良港の基礎を形成し、奈良時代には行基が港を修築した。そして、平安時代には平清盛が日宋貿易を行い、鎌倉時代には一遍上人などの多くの高僧が活動した。また、室町時代には足利義満が日明貿易の拠点とし、戦国時代には池田恒興(織田信長家臣)が兵庫城を築城。江戸時代には尼崎藩領からのちに幕府領になり、西国街道が通り、海陸交通の接点として賑わう町になった。そして、幕末には開港場となり、兵庫県が誕生する起点になった。

 常設展示を見学後、同ミュージアムの「初代県庁館」に移動し、慶応四年(一八六八)に誕生した兵庫県の初代県庁舎として使われた旧大阪町奉行所兵庫勤番所の復元施設を見学した。その後、初代県庁館の近くを流れる日本最大級の兵庫運河(新川運河)に掛かる大輪田橋を渡り、清盛塚を観覧した。さらに、一遍上人(時宗の開祖)が亡くなった寺と伝えられる真光寺へ向かい、一遍上人廟(県指定史跡)を拝観した。その後、平清盛に縁のある寺として有名な能福寺(天台宗)で、日本三大仏に数えられる兵庫大仏を拝観。西国街道をしばらくウォーキングして、JR兵庫駅で解散した。

 兵庫津の歴史を再発見できる見どころ満載のフィールドワークであった。

 

(主なコース)中央市場前駅(神戸市営地下鉄海岸線)→兵庫津ミュージアム(ひょうごはじまり館→初代県庁館)→清盛塚→真光寺→能福寺(兵庫大仏)→JR兵庫駅(解散)

〔出席者〕 計二十名 
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左:兵庫津ミュージアム(ひょうごはじまり館)    右:兵庫津ミュージアム(初代県庁館)

(文、写真・大塩祥三)

 

◇七月例会

◆内田 満氏(本会会員)による講演会

演題「写本『咬菜秘記』・『酊醒録』、埼玉にあり」

〇令和五年七月八日(土)午後一時半より

於 成正寺

 大塩の乱に関わった坂本鉉之助『咬菜秘記』と無名氏『酊醒録』、この関西で生まれた二書が、誰によって、どの様な経路で遠く隔たった関東の蘭方産科医の小室家の書棚へ到達したかと言う数奇な運命を明らかにする。小室家で学んだ安藤文澤が鳥羽藩稲垣侯の侍医として侯の大坂加番に随行し、坂本鉉之助と親交を結んだことに始まると述べられた。

『咬菜秘記』は文澤筆写本を好古家であった五代小室元長が借用・筆写した小室家筆写本(埼玉県立文書館蔵)、文澤から引き継いだ長男安藤太郎経由の筆写本(国会図書館蔵稀覯本)が存在する。『酊醒録』についても鳥羽藩家老家の筆写本を文澤が後日入手し、さらにそれを五代元長が写した小室家筆写本(埼玉県立文書館蔵)となる。その他に、別ルートの写本が国文学研究資料館と大阪府立中之島図書館にもあると言う。詳しくは大塩研究第八八号三頁及び本号三頁(次号に続く)をご覧ください。

〔出席者〕  計二一名
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左:講演中の内田氏と会場の様子             右:内田氏と藪田会長

(文、写真・松浦信輝)

 

◇会員からの情報

◆本会藪田貫会長他による講演・シンポジウム

演題「幕末堺研究の可能性 鉄砲・大砲・台場のまち」

〇令和五年三月四日

於 堺市堺区 開口神社瑞祥閣

 昨年十月の関西大学での堺鉄炮鍛冶屋敷開設イベント(『大塩研究』第八六号八四頁参照)に続く、堺の鉄砲鍛冶井上家関連の堺台場研究会主催の講演・シンポジウム。申し込み先着順で六五名が出席した。

〇内容

講演①「幕末期、堺の鉄砲鍛冶と七堂浜丁打場」藪田 貫先生(本会会長)

 大塩の乱の武器であった百目筒と棒火矢から、堺における鉄砲鍛冶の歴史を紹介。井上関右衛門家の躍進・大筒作成と七堂浜での試射、井上家の鉄砲受注数の推移や注文主について同家に残された資料を用いて説明された。井上家の鍛冶屋敷が堺の中心市街地より離れた位置にあったために第二次世界大戦での空襲被害を免れて、貴重な資料が残されたという。鉄砲だけでなく堺の歴史を知る上でも大変重要な文献であると述べられた。

講演②「堺台場と大砲 堺奉行・川村修就の日記から」後藤敦史先生(京都橘大学准教授)

 天保十四年に初代新潟奉行を務めた後、嘉永五年に堺奉行となった川村は、ペリー来航によって危機意識を高めた。堺に大筒を配備、台場を築く計画を推進。大坂町奉行となった安政元年にロシア艦隊大坂湾来航に対峙し、長崎奉行時代にも欧米の海防・軍事に関する知識を得る。川村は幕府御庭番家柄で、家督を継ぐ前後の天保八年の日記に大塩の乱の事を書いている。詳しくは大塩に関する書籍紹介欄をご覧ください。

座談会「幕末堺研究の可能性 鉄砲・大砲・台場のまち」

 藪田 貫氏、後藤敦史氏、小林和美氏(堺市世界遺産課)による座談会が設けられた。

 尚、「堺鉄炮鍛冶屋敷ミュージアム」は令和五年度にオープンの予定。            (松浦信輝)

 

◆「大阪の日本画」展

○会場・会期 大阪中之島美術館・令和五年一月二一日~四月二日/東京ステーションギャラリー・四月十五日~六月十一日

○内容

明治から昭和前期にかけて大阪を拠点に活動した画家の作品を集めた展覧会。大塩平八郎に関連する作品が出品されていたので紹介する。

菅(すが)楯彦(たてひこ)《浪速文人図》昭和十四年

 近世の大坂にゆかりの文人九名が人物図と各人の詩歌や句とともに描かれている。明治十一(一八七八)年生まれの「楯彦が理想とする文人世界が表現された作品」(展覧会図録より)。

 大塩の人物図に添えられていた詩は、

口吐太虚容世界太虚入口又成心々與太虚本一物 中斎

 大塩以外の八名の文人は、井原西鶴、片山北海(ほっかい)、下(しも)河(こう)辺(べ)長(なが)流(る)、契沖、中井履軒、近松門左衛門、上田秋成、与謝蕪村。

 また、洗心洞門人であった田(た)能(の)村(むら)直(ちょく)入(にゅう)、田結庄(たいのしょう)千(せん)里(り)(但馬不動次郎)の作品も数点ずつ展示されていた。

(山本珠美)

◆本会会員志村清氏による講演会

演題「大塩平八郎の乱と西村履三郎」

○開催日 令和五年四月二十日(木)午後六時三十分~八時

於 八尾市文化会館プリズムホール 参加者 約二十名

主催 八尾市観光ボランティアガイドの会

○内容

 「大塩平八郎の乱」の概略説明の後、八尾周辺の門人について、豊富な資料を元に解説。特に弓削村西村履三郎の乱後の顛末及び履三郎死後(逃亡先の江戸で客死)の家族の行く末を幼い二人の息子の数奇な運命を中心に詳しく語られた。

 紹介された門人ゆかりの地の建物や遺物のほとんどが現存していないことに衝撃を受け、語り継ぐことの大切さ、記録することの重要性を強く感じた。 (山本珠美)

 

◆吹田市立博物館特別展『大坂の陣と吹田村』―橋本家文書展―及び本会藪田貫会長他による講演

〇令和五年四月二九日~六月四日

於 吹田市立博物館 参加者 八十名

今回取り上げられた橋本家は織豊期から明治期まで吹田の旗本竹中家の庄屋を務めた由緒家。博物館の調査で戦国大名の正文(実物の文書)や近世の文書が吹田を知る貴重な史料群であることが確認され、展示されている。

 文政・天保期の橋本清太夫は大塩平八郎と交遊が深く橋本家で大塩が歓待を受けた礼状が展示されている。この文中では叔父宮脇志摩とともに大塩宅を訪れることをお待ちしているとも書かれている。また、清太夫の長男磯五郎と次男文三郎は「洗心洞」で学んだ時期もあったが、大塩の乱の時には既に退塾しており、乱には参加していない。

講演①「歴史遺産としての旧家」四月二九日 藪田貫(本会会長)

一旧家とは何か 鉄砲鍛冶屋敷井上関右衛門家・池守田中家を例に、建造物として既に歴史遺産。更に秘めている古文書・美術品に注目。

二「大坂の陣」と由緒 大道村沢田家などを例に苗字・帯刀(身分は郷士として)が許された。

三殿様に妬まれる旧家 吹田橋本家と旗本竹中氏。竹中家に功績があったが、役儀御免となり、苗字帯刀・屋敷地免除の免許状を取り上げられる。長男橋本磯五郎が江戸の老中へ駕籠訴を行なった。

展示期間中に日を変えて次の各講演が順次開催された。

講演②「大坂の陣をめぐる武士の戦い、住民の戦い」宮本裕次(大阪城天守閣館長)

講演③「荒木村重と戦国の吹田津」天野忠幸(天理大学准教授)

講演④「『橋本家文書』の高山右近禁制と北摂の戦国時代」中西裕樹(京都先端科学大学特任准教授)

歴史講座「橋本磯五郎、駕籠訴におよぶー由緒家を守るー」池田直子(吹田市立博物館副館長)   (内田正雄)

 

◆朝日新聞に大塩に関係する記事が掲載

朝日新聞 大塩檄文と国定忠治 

〇掲載日 令和五年三月十三日付 夕刊

「まちの記憶 天神橋筋商店街・600店舗 大塩平八郎ゆかりの地」

 真実かどうかは定かでないが、妙なリアリティーがあるとして、西の大塩平八郎と東の国定忠治を結びつける挙兵話が紹介されていた。

 大塩平八郎が乱を起こす年の正月早々、平八郎の使者が檄文と手紙を携えて、国定忠治が立てこもる上州赤城山までやってきた。「我々の挙兵に同志として参加してもらえないか」と使者。忠治は挙兵に参加しても構わないと思ったが、参謀格の子分が「挙兵のはかりごとがあいまい。成功するとは思われない。参加すれば、我々国定一家は壊滅してしまう」と助言し、計画は実現しなかったそうだ。             (小森己智子)

 

◆読売新聞に大塩に関する記事が掲載

大塩平八郎 漢詩の掛け軸 京都で発見

〇掲載日 令和五年四月二九日付 朝刊 

三月の成正寺での法要に続く帝塚山学院大の福島理子教授の記念講演「詩に遊ぶ大塩―新出資料が教えてくれること」で紹介され、取材を受けた漢詩の掛け軸である。この軸は今年二月、京都市内の骨董商で福島教授が見つけたもので、七言絶句の漢詩二首が三行にわたって書かれている。大塩が早朝の大川散策での風景を読んだもので、福島教授は「古典の知識も盛り込み、教養の高さが表れている」と話された。藪田会長は「乱のきっかけになった天保の飢饉前の作品ではないか」、乱を起したにも関わらず「大塩の志に共感し後世に伝えようとした人が多かった」ために書が残されたのではと感想を述べられている。              (松浦信輝)

 

◇大塩に関する書籍紹介

◆小松重男『幕末遠国奉行の日記 御庭番川村修就(ながたか)の生涯』中公新書 一九八九

三月に堺台場シンポジウムで藪田会長と同時に講演された後藤敦史氏紹介の御庭番・遠国奉行川村修就の日記に関する新書。後に初代新潟、堺、大坂、長崎などの遠国奉行を務めた人物だが、家柄は幕府御庭番である。修就がこの仕事の家督を継ぐ前後の日記に、大塩の乱のことが僅かだが出てくる。それは以下の天保八年の日付である。

二月二十三日、大坂表における大塩平八郎の事件を聞いた。(さすが御庭番家筋だけに正式の注進がくる前に情報をキャッチしている)

同月二十六日、大坂表より注進がくる。

同月二十八日、大坂表より二度目の注進がくる。同日、倉地久太郎(小十人格御庭番)と村垣与三郎(同前)の両名が大坂表への内々遠国御用を命じられた。

少し古いものだが、事件当時の江戸における御庭番の情報入手の速さと動きを知ることが出来る著書である。                  (松浦信輝)

◆石川九楊『思想をよむ、人をよむ、時代をよむ』ミネルヴァ書房 二〇二一

 書家・書道史家の著者が歴史上の二十五人の書をとりあげ、その書き手の書体から個人的性癖、背う時代、さらにはそれらを通して表現の思想まで覗見できると述べている。大塩平八郎の書、荀子識語「以仁心説以学心徳以公心辨此雖荀子語實学人永範」(大阪城天守閣蔵)については、「文字の一点一画をゆるがせにしないその書きぶりは圧巻である」「その規則正しい筆毫の開閉のリズム、手応えの確かさを感じるとき、大塩平八郎の乱なるものが義憤―正しい憤りに発したものであることを、まざまざと知ることになる」と書の写真と共に述べている。                  (松浦信輝)

◆菱岡憲司『大才子 小津久足―伊勢商人の蔵書・国学・紀行文』中央公論新社 二〇二三

 江戸店持ちの伊勢松坂の富商小津(おづ)久足(ひさたり)(一八〇四~五八)は、曲亭馬琴の友人であり、本居宣長の孫弟子にして、大蔵書家。また四十六点の紀行文を残す。久足の多様な営みを通して、近世社会の実相に迫るのが本書。ちなみに映画監督の小津安二郎は異母弟の孫である。

 久足は紀行文『ぬさぶくろ日記』の中で、大塩の乱に言及している。乱の翌年の天保九年、尊延寺村を訪れた久足は、平八郎がこの尊延寺村で閑居していたならば、文名は高くなったろうに、あろうことか政道を批判し、公儀を恨むとは、「狂人に似たるしわざなり」と手厳しい。しかし、「大坂人などは、かの平八郎がためにからきめにあひながら、猶たふとみて大塩さまととなふるは、いとあやし」と、大坂人が今もなお「大塩様」と慕っていることを伝えていて、興味を引く。   (小森己智子)

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