洗心洞通信

2018年8月29日 (水)

洗心洞通信67号(大塩研究79号 2018年8月)

◇平成三十年一月例会、講演会「天保能勢騒動―首謀者山田大助の狙いを探る」
 研究会一月例会は、二七日(土)午後一時三十分から、成正寺で行われた。 講師は土岐稔先生。先生は、小説「山田大助―天保能勢騒動」の著者。小学校の校長を務められながら、郷土史の研究をされ、その成果から、小説を書かれた。
 今回の演題は「天保能勢騒動―首謀者山田大助の狙いを探る」。
 この事件については、『大塩研究』七五号・七六号で、すでにご執筆いただいているが、先生のお話を直接お聞きしたいと、お願いした。
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  講演の冒頭、先生は講演の狙いを次のように述べられた。
 「一八三七年(天保八)二月十九日に大塩平八郎が挙兵し、人々を驚かせた。その五ヶ月後、大坂北の能勢で大規模な騒動が起こった。大塩平八郎が生存しており、能勢で再び挙兵したという噂が広まった。
 しかし、首謀者は大坂斉藤町に住む山田大助と仲間だと分かり、人々はさらに驚いた。
 大助はわざわざ能勢まで出かけ、何故騒動を起こしたのか、何の狙いがあったのか、いまだに疑問が残ったままである。挙兵事件を起こした大塩平八郎と能勢騒動を起こした山田大助の真の目的は何だったのか。二人の奥底にある思いは重なるのかどうか、史料を追及・検討するのは当然であるが、史料を超えて、大塩と大助の狙いを探っていきたい」。
 講演後、活発な質疑応答もあった。この事件には様々な説が唱えられているが、いずれも確証がなく、実に不思議な事件であるとの印象が残った。
 また、講演後、箕面の藤井隆さんから、ご自宅に残る大塩平八郎の漢詩掛け軸の披露があった。(次頁写真なお、これは四月の大阪府立中之島図書館におけるイベントで展示させていただいた)。
(出席者)有光友昭、井上 宏、上島朱實、内田正雄、片山 進、北田 一、北村静子、澤田 
平、志村 清、田村秀行、辻 不二雄、土居義孝、土井裕子、名倉延子、藤井 隆、福島孝
夫、松永友和、森田富夫、安田信之、山口五十二、山下安正、山田正登、薮田 貫、山崎弘義、計二四名 (井上 宏)

◇三月例会 一八二回忌大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要及び記念講演会 
 三月二五日(日)午後一時三十分から、成正寺で、一八二回忌大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要が行われ、記念行事として、講談師 旭堂南海師による講演が行われた。また、講演後、研究会の総会が開催された。

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◆法要

 有光友昭住職のもと、例年通り厳かな法要が行われた。

◆講演:旭堂南海師「大塩事件と講談」

 いつも和服姿の南海師がジャケット姿なのに驚かされた。今日は「口演」ではなく、「講演」だからということ。
 南海師は、講談名人であるばかりでなく、講談に関する資料を多く集められ、研究者としても有名。落語界の桂米朝師に匹敵するのではないだろうか。
 演題は「大塩事件と講談」。事件から幕末、さらに明治・大正期と、事件にまつわる実に多くの講談が語られ、大塩が庶民に人気があった様を、豊富な資料を駆使してお話しいただき、実に興味深いものだった。
 事件直後に、江戸の講釈師・塚田太琉が大坂の地で、『慶安太平後日の講釈』と題して講釈し、三日目に奉行所から差止めになった。その後もいろいろな講釈師が、人名を変え,、時代を変えるなどして、次々と演じ、人気を博した。多くは「実録」として演じられたが、その実、「真実六分、嘘四分」、それどころか、「真実四分、嘘六分」で、面白おかしく作られたものだという。
 中には、決起の話から、江戸の大岡政談の向こうを張って、大塩の三大功績、特に豊田貢事件を主体に、政談に変えようとして曖昧になってしまった話も多い。大坂には江戸のような人気の名判官がいなかったからだろうとのことだった。

◆講演終了後、年一回の総会が開かれた。
 平成二九年度の事業報告、会計報告、会計監査報告、平成三十年度の事業計画、役員改選、事務局連絡などがあった。
(出席者)有光友昭、一瀬絵里、井上 宏、上島朱實、内田正雄、大峯伸之、紙谷 豊、岸本隆己、北田 一、木村雅英、旭堂南海、酒井妙子、柴田晏男、志村 清、島田 耕、白井孝彦、谷 桂二、亭島昌秀、土井裕子、名倉延子、福島孝夫、政埜隆雄、松尾 寿、森田康夫、
安居二郎、安田勝行、山口五十二、薮田 貫、山崎弘義、計二九名        (井上 宏)

◇中之島図書館・大塩の乱一八〇年記念展
 平成三十年四月三日(火)~四月二七日(金)、大阪府立中之島図書館で、『時ならぬ浪華の花火―大塩の乱一八〇年―記念展』が開催された。入場者三六六八名の盛況だったが、この記録については、本号五一~五六頁に詳しく掲載しているので、ご覧いただきたい。

◇五月例会 フィールドワーク「大塩平八郎ゆかりの吹田を歩く」
 五月二七日(日)、風もあり薄ぐもりの絶好のウォーク日和に恵まれ、十五名が参加して行われた。
 今回はテーマを「大塩平八郎ゆかりの吹田を歩く」と名付け、大塩平八郎と関わりのある、宮脇志摩・橋本清太夫ゆかりの旧吹田村を地元の内田が案内した。
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Dsc_0098b_2 江戸時代後期に建てられた石燈籠から先が泉殿宮の参道。昨年大改修した本殿を拝した後、整備された境内で宮脇一彦宮司より宮脇志摩、本殿改修等の話を聞く。
 この後、大塩の乱と泉殿宮の関係を伝える民話『泉殿の神主さん』を土井委員がさわやかに朗読してくれた。
 宮脇家の墓所は玉林寺の北、浄光寺の境外墓地にあり、時代を憚ってか、墓石には『宮掖有孚、室理加合墓』と記されている。しかし隣にある明治時代に建てられた『志津摩の墓』には宮脇志摩、室理加三男と書かれていた。
 ついで、行基創建と伝えられる常光円満寺、重要文化財に指定されている旧西尾家住宅を経て、浜屋敷で休憩。ここは吹田市が寄贈を受けた旧庄屋屋敷を改修整備し「吹田歴史文化まちづくりセンター」として活用している。
 元気を取り戻した後、大塩平八郎も大坂から吹田に来たとき利用したと思われる神崎川「吹田の渡し跡」へ。
 『摂津名所図会』にも記載されていると案内板にある。
 薄茶に色分けした吹田街道を北へ進むと亀岡街道、能勢街道につながる分岐点に「南町道標」が立つ。更に進むと橋本家の菩提寺「正福寺」に着く。
 室町時代の創建で中興の橋本長蔵正福(橋本家の祖先)の名から寺名が付けられた。江戸時代末期の橋本清太夫は大塩平八郎と親交があり、二人の子息も『洗心洞』の門人であったが親子とも乱には参加していない。
 暑い中五キロを超えるフィールドワークであったが、古くからの会員・遠方からの会員もお元気で、定刻吹田駅に戻り解散した。
(出席者)内田正雄、鎌田雄三、木村雅英、小森己智子、志村 清、斉藤正和、土井裕子、名倉延子、長尾武、橋本 久、福島孝夫、藤井、隆、安田信之、山口五十二、山口君栄、計十五名       (内田正雄)

◇二月八日、二一:〇〇~二二:〇〇放送、BS日テレの「解明!片岡愛之助の歴史捜査」で大塩の乱が採り上げられた。
 同番組のうたい文句は―「歴史捜査」という新たなアプローチで、歴史の真実をあぶりだす。本格的歴史番組―というもの。「歴史の定説は決して『真実』とは限らない…歴史上の様々な事件・事象を最新の研究、徹底した資料の発掘、科学的なアプローチで検証。合理的に推理し事件の核心に迫る。歴史捜査から見えてくる「真実」を探る…としている。
 また、今回内容もホームページから転載すると―今回のテーマは#一〇一「大坂炎上!大塩は何と戦ったのか?大塩平八郎の乱の真実を追跡せよ!」。
 天保八年二月十九日。 大坂に大砲の爆音が響き、町は紅蓮の炎に包まれた! 徳川幕府を揺るがせた「大塩平八郎の乱」である。
 大塩率いる三〇〇人の「反乱軍」は標的である大坂町奉行所に向けて進軍。この反乱で、大坂の町の五分の一を焼き尽くす大惨事となった。
 もともとは幕府の役人、与力だった大塩平八郎。 泰平を守るはずの男が、なぜ反乱を起こしたのか? 定説では、大塩は未曽有の大飢饉に苦しむ人々を見て、 彼らを見殺しにする幕府に怒り、 「救民」の旗印を掲げ、反旗を翻したとされている。
 だが、反乱の背景には驚くべき事実が隠されていた!捜査線上に浮かび上った大塩が幕府へと送ったある密書。そこに書かれていたのは、大坂の町に巣食っていた巨悪の存在! 大塩が見つけたのは高級旗本の金融スキャンダルだった! 大塩平八郎の乱に隠された大坂の闇を徹底捜査!―と、興味津々。藪田会長の解説もあり、面白い番組だっ
た。                  (井上 宏)

◇吹田市立博物館で薮田会長講演「大塩平八郎を考える―文人の大塩・武士の大塩」
 本会の藪田貫会長による表題の講演会が二月十八日吹田市立博物館で行われた。宮脇志摩ゆかりの吹田市での講演ということで市民の関心も高く、定員を超える一三〇名程の出席があった。
P1040089b 講演では、はじめ二月八日に放映された、片岡愛之助のテレビ番組『歴史捜査』への関わりから、「檄文」と「建議書」などから見えてくる、大塩の乱と平八郎の志しを説明された。
 テーマの「文人の大塩」では、田能村竹田、頼山陽・篠崎小竹らとの詩と画を通じた交流。「武士の大塩」では愛刀畠山大和介源正光のこと、地方与力坂本鉉之助・本多為助らとの交流から砲術への関心を深め、堺七堂浜で大砲の実射演習を重ねたが「演じる技前、実用に適い難し」であったと言う。
 講演後も演台付近で、藪田会長に質問する人も多く、この地で大塩の乱・平八郎への関心の高さを感じた。                 (内田正雄)

◇酒井一先生遺稿集の書評・紹介相次ぐ
 二〇一七年一月に刊行された大塩事件研究会前会長酒井一先生の遺稿集『日本の近世と大塩事件』(和泉書院刊行)に関する書評と紹介が、相次いで発表された。
 雑誌『日本歴史』第八三五号(二〇一七年十二月)には、天理大学附属図書館司書の澤井廣次氏が、そして『日本史研究』六六四号(二〇一七年十二月)には、大阪大学大学院博士後期課程に在籍する尾崎真理さんが、それぞれ執筆している。いずれも新進気鋭の研究者である。
 生前、先生の謦咳に触れるチャンスがあったかどうは不明だが、ゼミや学会発表などで先生の業績の一部については知っていたであろうが、全体として先生の業績に向き合うのは初めてであろう。遺稿を集め論文集にしたことで、近世史研究の大先輩にあたる酒井先生の業績を若い学徒が学んでくれるのは、編集の労を取った者として大きな喜びである。
 「酒井氏は後進の我々に多くのことを語りかけてくれる」(澤井)「後学の我々の仕事は、酒井氏が播いた『種』から大きな花を咲かせること」(尾崎)と書く、若手二人の研鑽に大いに期待したい。      (藪田 貫)

◇大塩の乱関連書籍
◆『霖 雨(りんう)』(株)PHP研究所 文芸文庫

昨年十二月に急逝した直木賞作家葉室麟の著作。直木賞受賞作『蜩の記』からの愛読者であるが、なにげなく書店で手にするまで、大塩関連の著書であるとは知らなかったので驚いて買い求めた。
 江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあり実在した広瀬淡窓と豊後日田に創設した私塾「咸宣園」に関わる小説。本の中では、淡窓は直接、大塩平八郎とは交流はないが、共に教育者で漢詩人であり関心を寄せる。
 元広島藩士の臼井佳一郎という人物が「咸宣園」に入門してくるが、大塩平八郎の「洗心洞」に移って行く。 暫くして淡窓は大坂で大塩が乱を起こしたことを知るが臼井佳一郎の運命は如何に…….。
※「霖雨」―口語辞典によると長雨の意の漢語的表現とある。        (内田 正雄)

◆『新・西郷隆盛の実像』 秀作社出版 松田高明著
屋久島町永田に居住の川崎和彦氏より友人の著書として成正寺に届けられた。
 文中に大塩平八郎・乱に関係した記述がある。
 「西郷は大塩平八郎を尊敬し、私淑して大塩の『洗心洞劄記』を沖永良部島に持参したと伝えられている。
 (この後大塩の乱の記述が五行続く)
かって私は大塩平八郎縁の美青年鹿之助が乱に加わり、流罪となって屋久島の永田村に来た伝説を『流人譚』という物語に綴った。……. この鹿之助の子孫と名乗る人が永田にいる」
 屋久島に流罪となった木村司馬之助の子、司歌之助のことと思われる。 (内田 正雄)

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2018年3月22日 (木)

洗心洞通信66号(大塩研究78号 2018年2月)

◇平成二九年七月例会―澤井廣次先生講演会「幕末期の社会変容と慶應二年大坂打ちこわし」

研究会七月例会は、七月二二日(土)午後一時三十分から、成正寺で行われた。

P1100417b講師は、天理大学図書館 澤井廣次先生。天理大学・神戸大学大学院を卒業された、新進気鋭の研究者。研究会の会員でもある。講師紹介で、薮田会長は、このような若い研究者が我々に続いてくれることは非常に頼もしいと述べられた。

演題は、「幕末期の社会変容と慶応二年大坂打ちこわし」。酒井前会長が始められた研究の新しい展開とのこと。豊富な資料を駆使した、分かりやすく、興味深い講演だった。いずれ本誌にも講演録が掲載される予定なので、ここでは講演の構成と若干の感想を述べるに止める。

講演の構成は、「はじめに」の後、第一章 軍事拠点化に伴う大坂の社会変容― 1.前史として~近世都市大坂の様相、2.長州征伐に伴う経済効果と負担、3.「浪士」の流入と対策。第二章 慶応二年(一八六六)大坂打ちこわし―1.打ちこわしの背景、2.発生・展開・終焉、3.他の打ちこわしとの相違点。第三章 幕末期大阪の社会変容と打ちこわし―1.展開の特徴と幕末期大坂の社会構造。おわりに。

筆者には、この打ちこわしがそれまでとは様子が異なっている点が印象的だった。長州征伐の余波を受けた大坂の混乱時、無宿もの中心に何の予兆も無く発生し、わっと展開し、軍が出るとサッと終わってしまった。民衆の世直し気分横行を示しており、事件後幕府は様々な施策を打ったにも拘らず、もはや流れは押し止められなかったとのこと。社会の階層分化が激化するとどうなるのか。現在の世界の状況に照らして考えさせられる。

(出席者)有光友昭、泉谷 昭、井上 宏、乾 啓子、上島朱實、内田正雄、大峯伸之、奥村 勇、片山郁子、紙谷 豊、川元 勇、岸本隆己、北田 一、澤井廣次、靜 剛、柴田晏男、志村清、島田 耕、田辺敏雄、土井裕子、中村英一、名倉延子、西田修造、藤木 実、政埜隆雄、松尾 茂、山口五十二、薮田貫、山崎弘義、和田義久、計三十名 (井上宏)

 

◇講演会「再考 大塩平八郎―大塩の乱一八〇年によせて―」

十月二九日(日)、午後一時三十分から午後四時、大阪市立中央図書館五階大会議室で、講演会「再考 大塩平八郎ー大塩の乱一八〇年によせて―」が開催された。

サブタイトルは、―大塩平八郎とは何者なのか? 大塩の乱とは何だったのか? 大塩の乱一八〇年の節目に、歴史・文学の専門家とともに考えます―

大塩事件研究会・大阪春秋・大阪市立中央図書館の共催。講演とパネルディスカッションの二部構成で、

第Ⅰ部

①講師 薮田貫氏(大塩事件研究会会長・兵庫県立歴史博物館館長)による「大塩事件とは何か」

②講師 福島理子氏(帝塚山学院大学教授)による「大坂をうたう大塩平八郎―『洗心洞詩文』から―」

③講師 岩城卓二氏(京都大学教授)による「大塩の乱と能勢騒動で武功をあげた武士―水野正太夫の人生―」

第Ⅱ部

上記三氏によるパネルディスカッション「大塩の乱とは何だったのか」

三階で関連展示もあった。

当日は雨天。夕刻に大型台風が近畿に最接近の予報で、前日から図書館に開催についての電話が沢山寄せられたそうだ。それでも、一八〇名と大勢の聴衆が詰めかけ、熱心に講師の話に耳を傾けた。

今回の講演会は、『大阪春秋・大塩の乱一八〇年特集号』発刊記念とも銘打っている。同誌には多くの先生方にご執筆いただいたが、今講演会は大塩を巡る文と武の関係に焦点を当てたいと福島・岩城両先生にご登壇いただいたとのこと。

藪田先生から、大塩は文人・武人の両面を持っているが、学問の力と武士の政治力で世を変えたいと動いた。それが乱であり、建議書であるとの指摘があった。
 福島先生からは、大塩は詩人としての美意識があり、世間が抱く先入観とは異なった一面がある。また、日本の儒者は学問が実行につながらない煩悶があるが、大塩は行動する儒者として珍しい存在であるとの話があった。

岩城先生からは、江戸時代は武士の社会であり、行政手腕で出世するチャンスは少ない。大塩の乱は、島原の乱以来二〇〇年、初めて公儀御威光が試された瞬間。水野はそのチャンスを捉えることが出来た。明治維新に向け、武の時代再来の幕開けだったとの指摘があった。

主題から外れるが、建議書の封を切ったのは誰かについて、岩城先生から興味ある問題提起があった。

この講演会についても、いずれ、『大塩研究』で、詳細の紹介が有る筈である。(井上宏)

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◇十一月例会 フィールドワーク「酒と織姫の町池田を歩く」

十一月十八日(土)十三時より、池田市でフィールドワークが開催された。まずは、阪急の創始者・小林一三が開発した室町住宅の中心に位置し、絹織物伝来の伝説と関わりがある呉服神社(写真)を訪れた後、池田城跡に向かった。

池田城跡は現在公園として整備され、市民の憩いの場となっている。ここから、池田氏の菩提寺、大広寺(写真)を訪れた。池田城を見下ろすこの寺には一三の墓もあり、宝塚音楽学校の新入生が墓参するのが慣例である。大阪府指定史跡にもなっている前方後円墳、池田茶臼山古墳は整備工事中で残念ながら見ることはできなかった。この古墳からの出土品を収蔵する池田市立歴史民俗資料館では特別展「天若不愛酒(てんもしさけをあいせざれば)―近代池田の酒づくり―」が開催されており、この日のフィールドワークは同展の観覧で一段落となった。

当日の案内役は、池田市立歴史民俗資料館学芸員で、本会会員の宮元正博が務めた。

(出席者)一瀬雅子、内田正雄、北村静子、小森己智子、斉藤正和、島田 耕、志村清、土井裕子、長町 顕、名倉延子、林 耕一、福島孝夫、藤井 隆、増井明美、宮元正博、山崎弘義、吉川直樹  計十七名 (宮元正博)

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◇『大阪春秋』秋号で「大塩の乱一八〇年特集号」が発売

168_2 大阪の歴史と文化を中心に編集する郷土季刊誌『大阪春秋』が、秋号として「大塩の乱一八〇年特集号」を十月一日に発売した。A4版一二〇頁、定価一〇〇〇円+税。充実の内容なので、ぜひ書店でお求めいただきたい。特集内容を列挙すると、

○スペシャル対談 旭堂南海 × 藪田貫 「大塩平八郎とは何者か 歴史と講談から探る」 構成 長山公一○総論 「大塩平八郎中斎の生涯」 藪田貫 ○「大塩事件前夜の社会情況 ―天保期の大坂とその周辺地域を中心に― 」松永友和 ○「大塩中斎と陽明学」 森田康夫 ○「大塩平八郎と門人たち」 常松隆嗣 ○「大坂をうたう大塩平八郎 ―『洗心洞詩文』から―」 福島理子 ○「大塩中斎と齋藤拙堂」 齋藤正和 ○「大塩の乱と能勢騒動で武功をあげた武士 ―水野正大夫の人生―」 岩城卓二 ○「特別寄稿 大塩の檄文」 深谷克己 ○「近代小説・読物にみる大塩平八郎」 高橋俊郎 ○「大塩平八郎を描いた映画」 田辺敏雄 ○「船場町人・銭屋髙松家の大塩の乱伝承」 小林義孝 ○「大塩に半生を捧げた男 ―石崎東国と近代日本における大塩の乱―」 山村  ○「大塩家の菩提寺 成正寺」 有光友昭 ○「大塩事件研究会のあゆみ」 内田正雄 ○「酒井一先生と大塩事件研究会 三〇年を超えるお付き合い ―生涯の恩人」 久保在久 ○コラム 「大阪府立中之島図書館の玄武洞文庫」 編集部 ○コラム「大丸の『大塩の乱』伝承」 編集部 ○「大塩の乱ゆかりの地探訪 ―史蹟を訪ねて、大塩の乱を実感しましょう―」  大塩事件研究会 ○資料 「大塩関係略系図+大塩の乱関係文献目録+大塩の乱関係者一覧+大塩平八郎関係年表」  大塩事件研究会 ○付録解説 「大塩焼図(大阪歴史博物館蔵)+御役録 天保八年改正(大阪市史編纂所蔵)」 編集部 ○付録:大塩焼図(大阪歴史博物館蔵)+御役録 天保八年改正(大阪市史編纂所蔵)

お求めは、ジュンク堂大阪本店、同千日前店、紀伊国屋梅田本店の店頭、または、お近くの書店からお取り寄せ注文となる。(井上宏)

◇隠岐の島で、「おきゼミ~大塩平八郎の乱一八〇年と隠岐~」開催

九月二四日(日)、隠岐島文化会館で、藪田貫先生と旭堂南海師による対談「大塩事件とは何か」と、旭堂南海師による講談「大塩事件異聞:西村常太郎物語」が行われた。主催は(公財)隠岐の島町教育文化振興財団。

 大塩平八郎の乱に関係して隠岐の島に流された少年・西村常太郎を主人公として、幕末から明治初期にかけての同島の激動の時代を描いた歴史小説・飯島和一著『狗賓童子の島」が、司馬遼太郎記念財団主催の第一九回司馬遼太郎賞を受賞。また、文芸春秋社「オール読物」二〇一五年十二月号で、「時代小説、これが今年の収穫だ!」にも選ばれた。隠岐ではそれが話題になっていたが、旭堂南海師が同小説の一部を講談化したのを機会に、本企画が実現した。詳細は本誌での藪田先生報告をご覧いただきたい。(井上宏)

◇大塩の乱ゆかりの各市(守口・門真・枚方・吹田)で、大塩の乱一八〇年関連行事相次ぐ

 大塩の乱に関係の深い各市では、大塩の乱一八〇年を記念して、様々な行事が行われた。その一部を報告する。

一.守口市

◆歴史講座「大塩平八郎と守口」

十一月十四日(火)午後一時三十分から、守口市中部エリアコミュニティーセンター(守口市役所地下一階)で開催された。

Dsc00135b 講師は、大塩事件研究会会長の薮田貫先生、当日は雨にもかかわらず、定員一杯の四十名の聴衆が詰めかけ、熱心に聴講していた。

講演内容としては、事件の概要、大塩平八郎の与力として、学者として、詩人としての人となり、檄文のこと、事件への参加者と処罰など、多岐に亘ったが、特に、京街道筋の村々が、大塩と如何に縁の深い土地であったかを強調されていた。

天満~守口~尊延寺村を「大塩の道」と表現され、大塩が淀川近郊を散策し、詩作に耽ったこと、般若寺村の橋本忠兵衛、守口の白井孝右衛門、門真三番村の茨田郡士、尊延寺村の深尾才次郎宅などを、京街道を歩いて度々訪れたことなどを紹介されていた。

◆もりぐち歴史館「講談・大塩平八郎」

十二月一日(金)午後一時三十分から、講談「大塩平八郎」~守口市と関わりのある大塩平八郎のお話を講談で~ と銘打って、もりぐち歴史館で行われた。演者はもちろん旭堂南海師。

 この歴史館は、旧中西家住宅。中西家は、近世初期に尾張徳川家と姻戚関係を持ったことなどから、後に尾張藩天満御屋敷奉行などをつとめた河内きっての名家の一つ。この地に居を構えたのは、十六世紀中頃とされ、棟札には、弘治元年(一五五五)に主屋が創建され、元和二年(一六一六)に再建、現在の建物は寛政五年(一七九三)の再々建で、長屋門(大門)は安永五年(一七七六)に再建されたと記されている。大塩も講義をしたと伝えられる書斎も残される、由緒ある建物での講談は、聴衆を魅了したと思われる。筆者も出席の予定だったが、風邪のため辞退せざるを得なかったのは残念だった。(井上宏)


二.門真市・枚方市
  門真市の門真市立歴史資料館、枚方市の市立枚方宿鍵屋資料館、淀川資料館の三館が共同企画で、「北河内・淀川ゆかりの人物伝」の展示が、十月十一日(水)~十二月三日(日)に行われた。その中で、門真の展示が大塩の乱関連であった

◆門真市立歴史資料館「大塩平八郎と門人たち」
Dsc00119b 大塩の乱に参加した門真三番村茨田郡士家に残された資料を中心に展示。特に郡司が所持したと伝わる館蔵の短刀が目を引いた。また、寛文二年の「河内国絵図」、明治十五年刊の『今古実録 大塩平八郎伝記』(守口文庫蔵)など地元ならではの展示があり興味深かった。

 ビデオコーナーでは「大塩平八郎と民衆」他が上映されており、椅子席で休憩がてら楽しめた。(内田正雄)

 

◆史跡めぐり「大塩平八郎関連史跡をめぐる」

門真市立歴史資料館・市立枚方宿鍵屋資料館・淀川資料館合同企画展の関連イベントとして、標記の催しが十月二八日(土)十三時からおこなわれた。はじめに造幣博物館館長の案内で博物館を見学し、造幣局の敷地内にある洗心洞跡・与力役宅長屋門を巡った。その後、天満寺町を通り、大塩家の菩提寺である成正寺に到着。成正寺では大塩平八郎・格之助の墓をはじめ、大塩家の墓も見学し、行程を終えた。当日は時折、激しい雨が降るあいにくの天候であったが、十一名の参加者を得た。講師は門真市立歴史資料館学芸員で本会副会長でもある常松が務めた。(常松隆嗣)

◆講座「大塩平八郎と門人たち」

十二月二日(土)十四時より、門真市立歴史資料館・市立枚方宿鍵屋資料館・淀川資料館合同展示「北河内・淀川ゆかりの人物伝」の関連講座として、標記講演会が鍵屋資料館にて実施された。講師は門真市立歴史資料館学芸員の常松隆嗣氏。守口町の白井孝右衛門や門真三番村の茨田郡士、尊延寺村の深尾才次郎ら、北河内ゆかりの門人に加えて、明治に入って平八郎の墓を建立した田能村直入、「大塩一条御仕置」を見た庄屋畠山武兵衛に関して、講師のこれまでの研究に関連づけて講演した。当日の参加者は四六名。講演後の質疑も活発なものとなった。(市立枚方宿鍵屋資料館学芸員 片山正彦)


三.吹田市

◆街歩き『大塩平八郎の乱を巡って』開催

 吹田市でも公民館イベントで大塩の乱をテーマにした天満界わいの「まち歩き」が企画された。

平成二九年十一月十五日 主催 吹田市東山田公民館。参加者 市民十五名。主なコース 成正寺―蓮興寺―槐の跡―洗心洞跡―与力門―天満橋―天神橋―大阪天満宮―JR天満駅(解散)

 三月に吹田市立博物館の学芸員による「大塩平八郎」の講演会が行われ、参加者の要望により実施された。

 成正寺に続き吹田市にある泉殿宮の、当時の宮司宮脇志摩の母、清(せい)の墓を蓮興寺に詣でる。

また、大坂天満宮は、大坂の陣の戦火を免れるため神輿が吹田の庄屋橋本清太夫家に運ばれた。今でも市内の正福寺に碑があり、市民の関心が深い。(子孫である江戸末期の橋本清太夫は大塩平八郎と親交があり、子息二人は洗心洞の門下生)。 (内田正雄)


◇テレビ放送、NHK・Eテレ、「歴史にドキリ」で、「大塩平八郎~庶民の反乱」放映

十一月十五日(水)午前九時四五分~九時五五分、表記番組が放送された。小学生向け十分間の番組だが、一応乱の概要が掴めるよう編集されている。歌あり踊りあり、小学生が興味を持てそうな番組である。

NHKのホームページでバックナンバーを観覧できる。NHKオンラインで、「歴史にドキリ」第二七回を検索してご覧いただきたい。(井上宏)


◇天声人語『大塩の銘 山中の賊、心中の賊』

大学の入学試験などでも取り上げられ、幅の広い読者層を持つ、朝日新聞の『天声人語』平成二九年九月二六日欄で大塩平八郎が書に残した銘に触れている。

安倍首相が自民党の仕事始め式で大塩の座右の銘を紹介したことに対し、首相自身の姿勢が問われているのである。一部を転載する。

 〈山中(さんちゅう)の賊を破るは易(やす)く心中(しんちゅう)の賊を破るは難(かた)し〉。山賊に勝つのはたやすいが、自分の邪念を克服するのはむずかしい。明代の思想家王陽明の教えである▼「この言葉を私自身の戒めにしながら緊張感を持って進んでいきたい」。▼森友学園の問題が表面化するのは翌二月である

加計学園の疑惑、安保法制、改憲論議にも触れ、数で押し切り、側近の失態をかばうと批判。そして最後に退陣を求める有権者は敵だ――。そうした「心中の賊」を首相は破れるのか。

で結んでいる。(内田正雄)


◇『大塚薬報』に大塩記事

 本会会員で、大塩ゆかりの東大阪市・政埜家ご出身の政埜隆雄さんは薬剤師。同氏から今回、大塚製薬(株)が、医師や薬剤師など専門家に向けた同誌(一九五〇年二月創刊、十七年十二月号)に、大塩に関する記事があることをご教示いただいた。シリーズものの連載「ライバルの日本史」で第五回目、執筆者は佐藤理一氏。「水野忠邦と大塩平八郎」のタイトルで、小見出しに「一介の与力が老中に挑戦」「暴かれた巨大な不正」「庶民を守らぬ幕府の政策」「大塩の乱は倒幕につながる」と書かれていることからも分かるように、大塩の乱を「義挙」と評価した論考となっている。専門外の会誌にも大塩が取り上げられているので、本誌読者に紹介したい。(久保在久)


◇ハーバード大学日本史教室で、大塩平八郎の檄文が教材に

 書店に、中公新書ラクレ『ハーバード日本史教室』佐藤智恵著(税別八二〇円)が並んでいたので、書名に惹かれて読んでみたら、あのハーバード大学日本史教室通史の、江戸時代についての教材に、「大塩平八郎の檄文」が用いられていることを知った。何でやねん?と読んでみると、厳しい封建体制の下で、何故彼が乱を起こしたのかを理解するために、必要不可欠な資料であると簡略に記されていた。

 ちなみに、それ以外の同時代において教える時は、『放屁論』(平賀源内)『北越雪譜』(鈴木牧元)など、庶民の生活を描いた作品を課題図書として読ませているとのこと。

この講座を担当している教授はアンドンルー・ゴードン氏で、アメリカにおける日本史研究のリーダーのひとり。研究の主たる分野は―日本の近現代の労使関係史・社会関係史・政治史―。二〇一四年に旭日中授章を受賞されている。

詳しくは、同書中の「第1講義」の章をご覧いただきたい。(山崎弘義)


◇朝日新聞夕刊連載記事「追跡 大塩平八郎 反乱から一八〇年」

十一月二十日(月)から十二月四日(月)まで、土・日・祝日を除いて計十回、朝日新聞夕刊に表記記事が連載された。大峯伸之記者の執筆である。東は仙台から西は隠岐の島まで実に精力的な取材をされた。

第一回の見出しは「腐敗追及 現代にはおらんのか」。九十年万博時、地下道美化のための新聞販売スタンド撤去に反対して、「市役所に大塩平八郎はおらんのか」との壁新聞があったと紹介し、「与力時代は決してわいろを受け取ろうとせず、陽明学者として説いたことを実践しようと蜂起したとして、大塩は主に『清廉潔白』のイメージで語られてきた。だが、一方で『江戸で栄達を得ようとして失敗した』などと、異なる大塩像を唱える人も昔からいる。蜂起から一八〇年。大塩の『素顔』を追ってみる」と連載の意図を述べている。以下、見出しを並べると、二回「清廉潔白か 上昇志向か」。三回「『異質の存在』評価は二分」。四回「人気の背景にアンチ中央」。五回「乱を支えた郊外の豪農」。六回「門弟の子孫ら 沈黙破る」。七回「乱の痕跡 隠岐諸島にも」。八回「苦しむ農民を守るため」。九回「隠岐騒動の文書 八尾に」と続き、最終回の十回「武士への誇りと屈折と」では「『義人』という評価は高まったのに、大塩にはいまも毀誉褒貶がつきまとう。一筋縄ではいかない不思議な人物である。それが大塩の『素顔』なのかもしれない」と結んでいる。

本連載は朝日新聞社から利用許可をいただき、「大塩事件研究会のブログ」に転載している。(井上宏)

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2017年9月10日 (日)

洗心洞通信65号(大塩研究第77号 2017年8月)

◇「大塩の乱 関係資料を読む部会」の報告

 平成二八年の「大塩の乱 関係資料を読む部会」は十二月十九日が最終日であった。出席者二六名で、学習会終了後は、年に一度の懇親会があり、藪田会長のサイン入り著書が当たる〟あみだくじ〝等で大いに盛り上がり親交を深めた。

 翌年一月の報告によると、年一一回開催、延べ出席者一八六名、一回平均一七名とのこと。

 また、十一回出席の皆勤賞は一ノ瀬雅子、内田正雄、北村静子、木村雅英、中村和子、名倉延子、福島孝夫さんの七名。 十回出席の精勤賞は井上宏、西村美紀子、藤原勝、宮元正博さんの四名であった。

「大塩の読む部会」は原則として、八月を除く第四月曜日十八時~二十時までの二時間、扇町の大阪市立北区民センター会議室で行われている。

現在は藪田貫会長のご指導の下、古文書『難波美家解』と活字書『大阪市史史料近世Ⅱ』を読んでいる。また、学習の成果として『難波美家解』の翻刻文を『大塩研究』に掲載しているのでご覧いただいていると思う。

 学習会では前記文書を参加者が数行ずつ読み、皆さんから読み方、歴史用語についての意見が述べられ、最終的に藪田会長から解説をいただいている。

 古文書は難しいと思われがちだが、歴史談義を交え楽しく学んでいるので、是非一度お立ち寄りいただきたい。内田正雄)

◇平成二九年一月例会―
酒井一先生七回忌法要ならびに論文集『日本の近世社会と大塩事件』献呈式

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 三五年の永きに亘って大塩事件研究会会長をつとめられた酒井一先生の遺稿集『日本の近世社会と大塩事件』が一月二二日付けで和泉書院から発刊された。そこで同日、先生の七回忌法要と同書の献呈式が菩提寺成正寺で行われた。

式後の会食で参加者全員が先生の思い出を語った

集まった方たちは、先生令夫人ならびにご親族、遺品整理を担当された教え子・ご友人・論文集解題執筆者・出版社・大塩事件研究会役員の皆さん。

酒井妙子、内藤緑、有光友昭、加藤寛彦、岸本隆己、松尾寿、谷山正道、本城正徳、松永友和、廣橋研三、薮本祐子、薮田貫、内田正雄、柴田晏男、島田耕、志村清、土井裕子、政埜隆雄、松井勇、松浦木遊、宮元正博、井上宏 計二二名(井上宏)


◆遺稿集『日本の近世社会と大塩事件』について
P1090936b_2 大塩事件研究会では、先生の多数の論文が、ご急逝により、発表当時のまま放置されている状況を憂い、ご業績が次世代にも継承されることを願って、遺稿集を発行することを企画した。

 本書では、主要な論文二一篇を、Ⅰ近世の領主支配と村々、Ⅱ大塩事件、Ⅲ幕末の社会と民衆、Ⅳ地域史と民衆文化 に分類して収録した。

 冒頭には、先生みずからが半世紀の研究の軌跡を語られたインタビュー記事を掲げ、末尾には年譜と著作目録を付している。

Ⅰには本城正徳、Ⅱには松永友和、Ⅲには谷山正道、Ⅳには藪田貫の各氏による解題が付され、先生の業績の近世史研究における位置づけが試みられている。

本書の内容・目次等の詳細は和泉書院のホームページに掲載されている。ご覧いただきたい。(井上宏)



◇三月例会―一八一回忌大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要及び記念講演会

三月二六日(日)午後一時三十分から、成正寺で、一八一回忌大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要が行われ、記念行事として、天理大学教授 谷山正道先生による講演が行われた。また、講演後、研究会の総会が開催された。


法要

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 一八一回忌だが、事件後一八〇周年の記念すべき法要である。往事を偲びながらの厳かな法要だった。記録映画の撮影や新聞社・雑誌社の取材も入っていた。


講演:谷山正道教授「日本の近世社会と民衆運動
―大塩平八郎の乱を視野に入れながら―」

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 豊富な資料を駆使しながらのご講演は分かりやすく、興味深いものだった。
講演内容については、谷山先生が『大塩研究』にご執筆いただくことになっているので、それをご覧いただきたい。ここでは、ご講演の意図と、本稿筆者の感想を二・三述べるにとどめる。

◆ご講演の意図(レジュメ「はじめに」から)
○江戸時代は、「徳川の平和」と呼ばれる、世界史上でも稀な平和な時代であり、兵農分離制(身分制)・石高制(村請制)・鎖国制を国家の基本的枠組みとしていた。そうした体制のもとで、民衆は、生産や生活を守るために、地域に根ざしてどのような運動を展開したのか、それはどのような特質を有し、近世後期にはどのような変化を示すようになったのか。

○本講演では、合法的訴願と百姓一揆の双方に光をあて、日本近世における民衆運動の特質と展開のあり方について、大塩平八郎の乱も視野に入れ論じられた。


◆講演を聞いて印象深かったこと(本稿筆者)

1.〈訴の時代〉としての日本近世、2.近世における合法的訴願の展開では、
○一般的に百姓一揆が注目されるが、現在知られているそれは三千余件に過ぎない。ほとんどが合法的訴願であるとのこと。
 要求を述べる際、自分たちのことを「御百姓」と述べている。これは「我々百姓が貴方たち武士を土台で支えているのだぞ」ということを表現している。訴願は数量的・合理的で、道理に貫かれている。また、文章表現力と論理構成力に優れている。
 お上の言葉を逆に利用する図太さを備えている。例えば、「胡麻の油と百姓は絞れば絞るほど出るものなり」の言葉で有名な勘定奉行 神尾春央の「有毛五分五分の条」(五公五民)を盾にとって、それ以上の年貢増徴を防ぐなどしている。

○国訴など、問題レベルに応じた広域化を図っている。そのため、村役人層による地域集会を開催し、議定書を制定するなどしている。また、頼み証文(委任状)などは、代議制の前駆的形態とも取れる。

○百姓側からお上に、法文や政策内容を提示して「国触」(くにぶれ)を要求するなど、地域運営主体・政策主体としての成長が見られる。

○明治になって自由民権運動が盛んになるが、近世における民衆運動の、このような成長が基盤となっている。

3.百姓一揆と幕藩領主、おわりにでは、
○百姓一揆も中期までは「作法」があり、規律ある行動をとり、盗みや放火は自制していた。一揆勢が得物として携えたのは農具であり、武器は封印していた。領主側も鎮圧に際して、飛び道具は不使用としていた。
 非合法な訴えの首謀者は厳罰に処することが公事方御定書に記されているが、これも但し書きがあり、事情によっては柔軟に対応していた。百姓を「国の宝」として扱った。

○ところが、明和頃から次第に硬直的な処分となった。民の方も文政頃から一揆に竹槍を使用するなど暴力化するようになり、鎮圧側も武力行使をするようになった。階層分化が進行し、民衆の窮迫度が増し、領主に対する恩頼感が低下し、直接行動によって「世直し」を実現しようとする動きが出だした。

○天保期、凶作による米穀の欠乏と高騰による民衆の窮乏が激しくなったのは、再生産構造の変化が影響している。脱農化が進展し、「買喰層」が多くなることで、米価高騰が一層打撃となった。このような状態に、大坂では跡部山城守の悪政が拍車をかけ、大塩平八郎の乱につながった。島原の乱後二〇〇年、弓鉄砲を用いた大塩の挙兵は明治維新の先駆けとなった。

○上記のように、一般的な認識と異なり、訴願に対する幕府政治の対応は柔軟で、民の側も訴願を通じて自治力の向上があった。しかし、中期以降、階層分化の進行、底辺民衆の窮乏化が増すことにより、訴願も暴力化することが多くなり、大塩の乱につながった。階層分化の激化が如何に危険かに、現代の為政者も心すべきだろう。

以上が先生の講義に対する筆者の断片的な感想だが、受講者さまざまの受け取り方があると思われる。講義の全貌については『大塩研究 第78号』(平成三十年三月刊行予定)で先生の玉稿をご覧いただきたい。

 当日の参加者は、有光友昭、井上宏、上島朱實、内田正雄、大峯伸之、紙谷豊、木村雅英、酒井妙子、柴田晏男、志村清、島田耕、清水玉子、谷山正道、亭島吉秀、土井裕子、中井陽一、長山公一、名倉延子、西口忠、林耕一、福島孝夫、藤田恵玄、政埜隆雄、松井英光、松井勇、松尾茂、松永友和、宮元正博、安田信之、柳内良一、薮田貫、藪本祐子、山崎弘義、計三三名   (井上宏)


◇講談「大塩平八郎事件異聞 西村常太郎物語」鑑賞の報告

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 旭堂南海さん作の講談「大塩平八郎事件異聞 西村常太郎物語」が三月二四日、十八時三十分から、大阪千日前のトリイホールで上演された。

 同ホールは、法善寺横丁のすぐ傍、六十席程、落語・講談など演芸主体のホールらしい。硬い感じの演題なのに満席のお客さんで、南海師匠の人気が窺える。 南海師匠によると、この講談は、飯嶋和一著『狗賓童子の島』を、作者の許しを得て、師匠が講談化したもの。原作は司馬遼太郎賞を受賞したが、師匠は司馬より飯島和一のファンであるとのこと。
 原作は一二〇〇枚の大作で、大塩平八郎の乱に関係して隠岐島に流された少年・西村常太郎を主人公として、幕末から明治初期にかけての同島の激動の時代を描いた歴史小説。講談ではとても演じきれないので、導入部の一〇〇枚ばかりを講談化された。講談を聞いて、興味を持ってもらい、ぜひ原作を読んで欲しいとの意図。常太郎少年は罪人の子としての扱いを覚悟していたが、むしろ民衆のために立ち上がった偉人の子として遇されるのに驚く。少年はその年の「狗賓童子」に選ばれる。十人に一人しか生還できない過酷な大役のさまが迫力満点に語られる。そして、狗賓童子となった少年が医者としての教育を受け、島民と共に動乱を生き、島の危機を救うことが予告されて講談は終わる。話の全貌をぜひ知りたいと思わせる熱演だった。

 講談の後、「大塩事件の今を語る」というテーマで、大塩事件研究会会長・薮田貫先生と南海師匠による座談会があった。薮田先生の話で興味深かったことがある。
 大塩の乱によって島流しにあった子供は十四人にも上る。一人ひとりに興味深い物語があった筈である。その中で何故常太郎の物語が語られることになったのか。彼らのほとんどが流された土地に留まったのに対し、常太郎が明治二年大阪に帰り、医者となったことが大きい。明治十三・四年頃、毎日新聞の宇田川文海が常太郎から話を聞いた。それが左殿家文書の中に納められていた。
 左殿家文書は、本会会員森田康夫先生が長年調査・研究され著書に納められている。その著書が大塩をテーマに執筆を企画していた飯嶋和一氏の目に触れ、『狗賓童子の島』として結実した。

 ネットに、飯嶋和一氏の執筆動機を掲載している頁がある。(全国書店ネットワークe-hon、著者との60分)
http://www1.e-hon.ne.jp/content/sp_0031_i1_201503.html
 
 この中で、同氏は、森田先生の著書を読み、この視点でなら大塩平八郎の乱を書けると思ったと述べている。物語は常太郎主役だが、執筆の動機は大塩平八郎の乱であるとはっきり言っている。

 また、『大塩研究』 に森田康夫先生の西村常太郎・謙三郎兄弟に関する研究論文が掲載されている。
第十三号の「大塩の乱と隠岐騒動―弓削村七右衛門の子常太郎のこと―」、第二四号の「弓削村七右衛門の子・常太郎の隠岐体験―大塩の乱と隠岐騒動を結ぶもの―」がそれである。
 さらに先生は現地調査を重ねられ、その結果を踏まえて、一九九二年三月、成正寺で講演されている。「隠岐・五島に生きて―河内弓削村西村履三郎の子常太郎・謙三郎―」で、その概要は『大塩研究 第三二号』の「洗心洞通信二六」に掲載されている。(ホームページ「大塩の乱 資料館」参照) 

 もう一つ、薮田先生の指摘は、この講談は常太郎の母由美について触れていない。由美が非常に偉かったからこそ、あの常太郎があったということを言って欲しかったとのこと。
南海師匠は、「先に言ってくださいよ。入れたのに」と悔しがっていた。次に語られる時には入っているかも知れない。乞うご期待である。(井上宏)


◇五月例会記録「大塩の乱 一八〇年記念映画会」
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平成二九年五月十三日(土)、午後二時から、大坂グリーン会館二階大ホールで、「大塩の乱 一八〇年記念映画会」が開催された。

上映作品は二本
 新東宝作品『風雲天満動乱』 第二部 嵐寛寿郎主演(一九五七年)
 記録映画『大塩平八郎と民衆』 島田耕監督 文部大臣賞受賞(一九九三年)
 当日の大阪地方天気予報は雨のち曇り。予報通り朝から雨だったが、幸い午後には上がり、約七十名の参加で盛況だった。

 研究会薮田会長の挨拶の後、二本の映画が上映されたが、合間には記録映画の島田監督から、若干の解説があった。

 会長からは、「新東宝映画は史実とかなり異なる娯楽作品である。決起した人たちは、自分たちのみでなく、家族にも累が及ぶことを覚悟して民衆のために行動を起こした。『無私』の行動である点を見て欲しい」との話があった。

島田監督からは、「記録映画は史実と、それが歴史に持つ意味を追及している。そのため家族の流刑地にまで、ロケを敢行した。どの地でも、犯罪人の子としてではなく、民衆のために立ち上がった人の子、学があり、将来島のために役立つべき子として大切に扱った。このことは乱が民衆にどのように受け取られたかを示している。
 また、この映画会に当たって、事務局に、政権に刃向った大塩の乱の映画で文部大臣賞を受賞するとは何事かとクレームがあったらしい。コンクール用に作った映画ではなく、完成後勧められて応募した。審査にあたったのは政権内部の人ではなく、教育映画の専門家たちなので、評価されたのは意義のあることと思う」との話があった。

参加者からは、「嵐寛の映画は懐かしかったし、それなりに面白かった。記録映画は、教科書にはない知識を得ることができた」「大塩マップを購入しました。自分の住んでいる所の歴史を知りたくなりました」「中・高の教員をやっています。学生相手にお話を聞かせていただきたい」等の感想があった。また、「今の官僚・政治家に無私の人は皆無だろうね」との声も聞いた。

乱一八〇年のイベントとして、成功だったようだ。

当日の参加者は会員十八名―伊藤誠一、井上宏、内田正雄、木村雅英、澤田平、柴田晏男、志村清、島田耕、白井孝彦、末 廣訂、亭島吉秀、中井陽一、名倉延子、西山淸雄、福島孝夫、松尾寿、薮田貫、山崎弘義、

一般四八名、計六六名(井上宏)


「まんが 大塩平八郎

()くもん出版発行、著者・ムロタニ・ツネ象の、時代を動かした人びと『日本の歴史人物伝』という子ども向け漫画本に、大塩平八郎が取り上げられている。

なにげなく書店で手に取り驚いたのは、一九九九年発行で四一四頁にわたる児童書としての大作が、今日まで第四二刷発行され読まれ続いていることだ。

 大塩平八郎は二章―新しい道をきりひらいた人びと―に七頁に渡って掲載されている。内容は丁寧に史実に沿って書かれており、子どもの時から、大塩平八郎を正しく理解してくれるものと思われる。(内田正雄)


◇大橋幸泰著『近世潜伏宗教論』―キリシタンと隠し念仏― 校倉書房 (歴史科学叢書)

同著を著者で本会会員の大橋幸泰氏から贈呈されたので、紹介する。

江戸時代の切支丹をはじめ異宗と思われていた、宗教活動に信仰・邪正・幕府藩の対応と広い範囲で考察する。この中で、大塩平八郎が与力時代の三大功績の一つとされている「キリシタン逮捕一件」については「文政期京坂キリシタン考」と題し詳しく論考している。(内田正雄)


◇田能村竹田―吹田・なにわを愛した文人画家―展

 大塩平八郎と親交があり、養子(弟子)直入を洗心洞で学ばせた田能村竹田展が、吹田市立博物館二五周年記念 春季特別展として四月二九日~六月四日まで開催された。

 竹田は豊後国岡藩医の家に生まれたが、文芸や書画に秀で諸国を旅し大坂では木村兼葭堂、頼山陽とも出会う。 

 天保六年(一八三五)療養のため吹田に来た竹田が描いた「吹田養痾図」が今展示のため、竹田市立歴史資料館から里帰りして目玉の一つとなる。

 展示作品には大塩自詠の七言絶句詩を揮毫した、力強く雄大な紙本墨書一幅(署名 洗心洞連齊)もある。

(内田正雄)


◇会員の動静 

◆当会元副会長 故 井形正寿さんがNHKテレビ「探検バクモン」に登場

 当会副会長として永年功績があり、二〇一二年に亡くなった故 井形正寿さんがNHKテレビ「探検バクモン」のお札特集で取り上げられた。ただし、井形さんは福島区の歴史研究会事務局長も永く務めておられ、その仕事に関係した取材内容だった。
 放映日は十二月二八日(近畿では三〇日)。この回のテーマは「お札」。お札は新札となる度に、若い番号が縁の公的機関に交付されるそうだ。一万円札の顔が聖徳太子から現在の「福澤諭吉」に替わったのがD号券の一九八四年。さらにそれが偽造防止技術を施した、現在のE号券に替わったのが二〇〇四年である。
 そのE号券の印刷七枚目A000007Aが、井形さんが事務局長を務められていた福島区歴史研究会に交付され、井形さんが交付式で受け取られた。(06Aは大阪市)。
 若い番号が民間に交付されるのはレアケースなので、当時多くのマスコミが取材に来たそうだ。今回の探検バクモン「お札特集」でも、その経緯に番組ディレクターが注目した。
 交付理由の大略は、一万円札表紙が福澤諭吉となった一九八四年当時、諭吉が中津藩大坂蔵屋敷(現福島区福島一丁目)で生まれ、大坂の適塾で学問に励んだことを顕彰するものがほとんどなかった。そのため、福島区歴史研究会が猛運動をし、福島図書館に「福澤諭吉記念室」が創られた。(福島区歴史研究会ホームページに詳細掲載)。

 番組中の該当部分は数分だったが、交付式や中津藩跡(福島区)の福沢諭吉誕生碑前での井形さんの写真等が放映された。(N.M.)


◆森田康夫著『評伝/ことば 大塩平八郎』
本会会員である森田康夫先生が、近く和泉書院より出版する。発行日・価格は未決定。
 本書は、同氏が永年続けてきた大塩研究を集大成したもの。平八郎の「生い立ち」「大坂町奉行所」「呻吟語との出会い」と書き進め、「大塩の言葉」についても記述。

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2017年3月20日 (月)

洗心洞通信64号(大塩研究第76号 2017年3月)

◇七月例会
 七月二四日午後一時三十分から、成正寺で、帝塚山学院大学教授 福島理子先生による講演「大塩平八郎の詩心」が行われた。
 乱の指導者として世間的には有名で、謹厳実直な面のみ強調される大塩平八郎が、実は繊細な詩心を持った詩人であったことを、残された詩軸を中心に説明された。
 会場に展示された詩軸三点は、酒井一前会長の遺品である。(遺品整理については、前号洗心洞通信の岸本隆巳氏報告を参照されたい)
 講演内容は、福島先生が「大塩研究」本号にご執筆いただいているので、ここでは多くを述べないが、普段余り目に触れることもない漢詩で、理解が難しいのではないかと心配していた受講生にも分かりやすく、感動的であった。
 題材となった大塩の漢詩は、展示三点の他、「洗心洞詩文」から三点の計六点だったが、それに関連する頼山陽や篠崎小竹の詩も四点取り上げられた。
 歴史に題材を取りながら、時局を諷刺・慨嘆する詠史詩は、その詠み方が情感豊かである。また、春愁や秋愁を詠む詩でも、酒を飲み、春風に吹かれながら川の景色を楽しむ詩や、箕面に紅葉狩りに行った際、誤って枝を折り山僧に縛られた人を助けた詩などを読むと、大塩の人間性が感じられる。
 大塩のよく知られている厳しい面は、与力として・教育者としての必要性から出たもので、その裏には繊細な詩心が潜んでいたことを今回の講演でよく理解できた。
 当日の参加者は、有光友昭、井上宏、内田正雄、奥村勇、唐橋研三、紙谷豊、川崎隆、岸本隆己、北村静子斉藤正和、志村清、白井孝彦、神藤勵、辻不二雄、土井裕子、中井陽一、長坂保子、福島孝夫、政埜隆雄、松浦木遊、安田信之、薮田貫、藪本裕子、山口五十二、山崎弘義、山田正登、和田義久、 計二七名(井上宏)

◇十月例会(フィールドワーク)
 十月二三日(日)、「西村履三郎・常太郎ゆかりの地を歩く」をテーマに、八尾の歴史にお詳しい本会会員 志村清氏のご案内で、近鉄志紀駅前を二五名の参加で出発した。午後からの天気の崩れが心配される空模様であったが、暑からず寒からず、日も照らずで、歩くには最適と言えた。
 道鏡の出身地と伝えられる弓削の街を歩き、まず弓削神社にて神明造りの御本殿を参詣し、次の西弓削神社では、西村家四代目の建立による燈籠や、履三郎父の寄進の狛犬を拝観して、往時の西村家の隆盛の様子が窺い知れた。
 さらに歩き、一族の西村市郎右衛門の頌徳碑を見る。一七〇四年の大和川付け替えにより灌漑用水が不足することになった村々のために、大旱魃の折、新大和川から樋を開いて罰せられた人という。裕福な庄屋階級にありながら、気高い意志を持ち、困窮の人々を救おうとした人が履三郎のみならず、同胞にもう一人あったということに深く感動した。
 そして履三郎屋敷跡にて後の常太郎が馬で通ったという冠木門や常太郎子息・左殿正逸建立の観音堂、また、西村家菩提寺である聞法寺では、帰阪した常太郎・謙三郎兄弟らが寄進した釣鐘等を見学した後、弓削霊園で履三郎一族のお墓に参加者一同が手を合わせた。
 最後に旧田井中村を延々と歩き、大塩平八郎門人渡辺良左衛門自刃場所とされる五条宮跡を通り、近鉄八尾駅で解散となった。随分長い道程であったが、この地に夥しい数の悲しみのドラマがあったことに心を打たれ、志を持つ人々の強さや人間の絆と思いやりの深さなど、考えさせられること多く、実りのある一日を終えることができた。
 志村清先生、有難うございました。
 当日の参加者は、青木昭子、伊藤友江、一瀬雅子、井上宏、岩崎芳彦、上島朱實、内田正雄、奥村喜一、紙谷豊、北村静子、坂本忠太、柴田晏男、志村清、志村照代、白井孝彦、高橋美那子、土井裕子、名倉延子、中村和子、
藤原勝、松浦木遊、松井勇、安田信之、山崎弘義、山田正登、計二五名(土井裕子)

◇十一月例会
 十一月二七日(日)午後一時三十分から、成正寺で、平塚市博物館学芸員 早田旅人先生による講演「二宮尊徳の仕法と思想」が行われた。
 早田先生は四二歳と少壮気鋭の研究者。二〇一四年、東京堂出版から『報徳仕法と近世社会』を出版され、注目を浴びている。
 大塩平八郎と同時期に関東で活躍した二宮尊徳。平八郎が武の力で改革を企図した世の中を、尊徳は農の力でどのように改革しようとしたのか聞いてみたいと平塚市からご来阪いただいた。
 先生は今回講演に当たって、「近世後期、二宮尊徳により生み出され、関東地方を中心に荒村復興や領主財政再建を目指した報徳仕法。尊徳の思想もまた、その仕法実践における課題や状況との格闘のなかで生み出され、変化していきました。その意味と特質を近代の報徳運動を見通しつつ考えます」との言葉を寄せていただいた。
 講演内容については、早田先生が『大塩研究』にご執筆いただくことになっているので、ここでは詳細を述べないが、一般の人が抱く、「小さなことからこつこつと努力して偉くなった人」(積小為大)だけではない、「格闘する尊徳像」を見せていただいた。また、尊徳死後、その運動がどのように変容していったかも印象深いものがあった。
 筆者の感想を一部かいつまんで述べたい。
 まず導入部分での「金次郎像の虚実」に驚かされた。「金次郎は柴を背負って山道を歩きながら読書をしていた。その努力する姿を称える銅像が戦前はどの小学校にもあったが、戦後消えてしまった」と一般に信じられている。しかし、早田先生によると、実像は違う。どう違うかは、早田先生の玉稿をご覧いただきたいが、これは、通説と真相が如何に異なるかを象徴しているとのこと。尊徳の仕法・思想も近代に造形・改変・隠蔽されて理解されているとのお話に目を開かされた。
 本論に入り、尊徳仕法の核心、「分度」・「推譲」・「報徳金」について説明があった。
 「当時村落における格差の拡大・貧困層の増加は抜き差しならぬ状態になっていた。これでは共同体の維持が出来ないと考えた尊徳は、富者は分度内で生活して、余剰を貧者に推譲(再配分)し、全体としての繁栄を図る仕法を説いた。しかも、仕法で生み出される富は一村・一藩の所有物ではなく公共物として領域横断的に融通・分配されるべきだとした。また、天道(自然)に沿わねばならないが、人間営為がなければ富は生み出せないと、人道の大切さを強調した」とのこと。
 世界は今、格差による社会の分断に悩んでいる。尊徳の仕法は良い処方箋であると筆者は感じた。
 次いで、幕臣となった尊徳の苦悶・思想の変化、急変する国際情勢に対する尊徳の考え方、さらに尊徳死後の運動の変節等の説明があった。
 幕臣になることにより、理想の仕法を目指した尊徳が、上司である山内総左衛門の保身行為に阻まれるのは、大塩の献策が上司に入れられなかったことと通じる。そのため尊徳の仁政論(公権力の責任追及)は先鋭化していくが、体制の変革思想には至らなかったようだ。
 尊徳の死後、幕府の瓦解もあり、尊徳運動は変容していく。仁政論は切り捨てられ、人道は通俗道徳化していく。さらに太平洋戦争中は国家権力に奉仕する運動に変節する。戦後になっても公権力への主体性欠如の状態は変わらず、通俗道徳の域に留まっているとのことだ。
 このように、尊徳の思想が時代により変容していく様子をご説明いただき、非常に興味深く感じた。
 同じように大塩の乱が持つ意味も、時代により変わってくると思われる。我々の研究課題だろう。
 最後におまけとして、尊徳の大塩平八郎観の説明があった。大阪在住の小田原藩士伊谷治武右衛門から届いた悪評を信じ、悪印象を持ったことが、その後の書簡で窺える。しかし、それぞれの書面を額面通り受け取って良いものか、今後の研究が待たれる。以上
 当日の参加者は、有光友昭、安藤久子、井上宏、上島朱實、内田正雄、奥村勇、斉藤正和、酒井妙子、島田耕、志村清、土井裕子、福島孝夫、松浦木遊、薮田貫、山崎弘義、山田正登  計十六名 (井上宏)
 
◇大塩映画会
 「大塩事件研究会が造った映画があり、文部大臣賞を貰った」と言ったのがきっかけで、田辺敏雄さんが興味を示され、同氏が取り仕切っておられる「ワイルドパンチ」で十月二九日に実施された。古書店(蔵書約五千冊)と喫茶(酒類もあり)の店で、スクリーンの設備もあり最大五十人収容できる。最初に『大塩平八郎と民衆』を監督作品された本会の島田耕さんが解説をされ上映。その後、嵐寛寿郎主演の「風雲天満動乱」を鑑賞した。このほか嵐主演映画の紹介(一部上映)や資料も配付された。出席者は本会会員を含む二四人。同所は天神橋筋六丁目駅②出口を左(北)へ三つ目の辻を右。おついでの折古書の探索でもいかが。(久保在久)

◇春日庄次郎の大塩観
 同氏(一九〇三~七六)は、戦前非合法下の共産党員。三・一五事件(一九二八)で検挙され、一番重い懲役十年を課せられたが、非転向で出獄。戦後党の中央委員に。しかし六一年路線問題で対立し党を逐われた。八六年三品とみ子が自伝『草の実―一革命家の手記』を発刊した。その中で春日が大塩について触れた部分がある。

 「この大阪で天保の飢饉の際、大塩平八郎という儒学者が叛乱をおこし、貧窮者の救援のために、金と米を放出するように金持どもを強要したという、いわゆる 「天保の乱」というものを知った。私の祖父はよく『大塩さん、大塩さん』といってこの天保の乱を語ったものであったし、今橋の鴻ノ池の本宅の前を通ると『ここが大塩さんがどなりこんで金を出させようとしたとこや』、ある時は、『この高麗橋筋はもう一揆のもんでいっぱいやった。あっちこっちとおしかけまわして、とうとう、天満から船で逃げたんや』と話してくれたものである。しかし、その時は、ただの話としてしか判らなかったが、今になってはじめて判るようになった。そうして祖父がなぜに『大塩さん』と尊敬して呼んだかということも判った」。(前掲書、十二頁)
 
 昭和期大阪生まれの革命家が大塩から深い影響を受けたことが窺われ興味深い。(久保在久)

◇『吹田市で大塩関連講演会』
 藪田貫会長による講演会が四月に行われた吹田市で九月にも二件「大塩平八郎」関連の講演会が催された。
◆「大塩平八郎の乱と吹田」 九月二九日、於吹田市立東山田公民館、講師 吹田市立博物館学芸員池田直子氏で、地区の住民三十人程が出席。演題に従って、将軍徳川家斉の時代の幕政・天保の飢饉など「大塩の乱」の背景にある歴史の話。続いて大塩平八郎の人物像と「大塩の乱」についての説明。最後に地元吹田との関連を宮脇志摩・橋本清太夫を取り上げて分りやすく話された。
◆「橋本家と老中駕籠訴事件」 九月十五日、於歴史文化まちづくりセンター(通称 浜屋敷)、講師 元吹田市市史編纂室長 中口久夫氏、「すいた昔さろん」というイベントで市民四十名程出席。
 大塩平八郎と親交のあった吹田の豪農橋本清大夫の長男で、洗心洞の元塾生であった磯五郎が起こした事件。橋本家は旗本竹中家を主家とし代々庄屋を務めた家柄で、大坂の陣での先祖の功績で苗字帯刀を許されていた。文政年間清大夫は竹中家のため借財の整理など実直に務めていたが、文政十一年同輩の讒言により在郷謹慎を命ぜられる。竹中家役人の査問を受け、種々陳弁したが聞き入れられない。翌十二年には磯五郎まで、「不埒の至り」と役儀放免処分となる。
 清大夫の悲嘆を見た磯五郎は天保四年三月死罪を覚悟の上で、老中大久保加賀守へ駕籠訴に及ぶ。寺社奉行土井大炊頭に引き渡され再三の吟味に主家の非道を訴えたが聞き入れられず、竹中家と和解するように命ぜられ帰村を許された。
 参加者は地元でも余り知られていない郷土の歴史話に、感慨深げに聞きいっていた。(内田正雄)

◇泉殿宮(いづどのぐう)正還座祭 
 大塩平八郎の叔父宮脇志摩が宮司を務めていた、吹田市の泉殿宮では社殿葺き替えを始めとする社殿境内整備事業を行って来たが一部を残し終了した。
 平成二八年十月二一日、修復された銅色(あかねいろ)に輝く社殿に神様を遷す「正還座祭」が、多数の関係者が参列して厳かに斎行された。
 残りの工事完了後に、例会フィールドワークで訪ねたいと思っている。(内田正雄)

◇会員の動静 
◆久保在久氏
が聞き書きし、一九九一年に上梓した高田鑛造自伝『一粒の種』が、目下話題となっている写真集『美しい刑務所―明治の名煉瓦建築 奈良少年刑務所』の中で取り上げられている。高田氏は昭和三年(一九二八年)に三・一五事件で思想犯として検挙・投獄され、三年強を奈良刑務所(旧奈良監獄)で過ごしているが、写真集ではその際の回想が一頁強に亘って引用されている。
 因みに奈良少年刑務所は、明治四一年(一九〇八年)の建築で、設計者の山下啓次郎はジャズピアニストの山下洋輔の祖父に当たる。また奈良少年刑務所は本年三月を以って閉鎖されるが、PFI活用による保存が予定されている。加えて昨年十月には重要文化財指定の答申がなされている。
 なお、『一粒の種』は、府立労働センター(天満橋)四階の「エルライブラー」に寄贈されている。
(辻不二雄)

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2016年10月 4日 (火)

洗心洞通信63号(大塩研究第75号 2016年9月)

◇二月例会 

 二月六日成正寺にて、二二名が参加して行われ、山形隆司氏(日本福祉大学知多半島総合研究所)から「文政一三年のおかげ参りと大坂」と題して講演をいただいた。 

「おかげ参り」は、江戸時代に全国各地から伊勢神宮へ群集が押し寄せた現象で、神意の現れとしての奇瑞(飛び神明)を根拠として展開した。慶安三年(一六五〇)以降数回起こっている。 

今回は阿波から始まり全国に波及、参宮者が約四二八万人と云われている文政一三年(一八三〇)の事例を取り上げた。 

 大坂からの参宮の事例としては二組が、同伴者・ルート・費用まで明確に検証されていた。 

また、南河内において「お陰踊り」が発生するが領主より禁止されたこと。故長谷川伸三先生より「読む部会」で学んだ、『竹園日記』に記載された内容も取り上げられており、非常に興味深かった。

 

当日の参加者は、有光友昭、伊藤誠一、井上宏、上島朱實、内田正雄、斉藤正和、柴田晏男、志村清、白井孝彦、清水玉子、田中忍、橋本久、畑中進、長尾武、二木貴久、政埜隆雄、松浦木遊、安田信之、薮田貫、山口五十二、山崎弘義、吉川直樹 計二二名(内田)

 

◇大塩中斎一八〇回忌法要・記念講演と総会 

 二〇一六年三月二七日午後一時半から成正寺において、同寺主催の「大塩父子・殉難者一八〇回忌怨親平等慰霊法要」が有光友昭住職によって営まれ、本堂にて看経の後、墓碑に展墓した。また、本行事はテレビ(BS11)や、日蓮宗新聞の取材があった。 

 その後、本会主催の記念講演会が行われた。講師は神戸大学経営経済研究所准教授 高槻泰郎先生、演題は「御用金政策に見る豪商と大坂町奉行所与力の関係」だった。(講演の概要は後述) 

 小憩の後、内田正雄事務局長の司会進行で総会が開催された。藪田貫会長の開会挨拶に続き、二〇一五年度事業報告、会計報告があり、土井裕子会計監査委員から会計監査報告がなされた。その後、二〇一六年度事業計画の報告の後、閉会挨拶を経て総会は終了した。 

 なお、本年は役員の改選期ではないが、委員で「大塩研究」の編集長を務めておられる辻不二雄氏が、社業の都合で編集長を退かれることになり、会員の宮元正博氏(池田市立歴史民俗資料館学芸員)が委員に就任され、編集長を引き受けていただくこととなった。
 

 当日の参加者は、有光友昭、安藤久子、井上宏、岩坪守、上島朱實、内田正雄、奥村勇、紙谷豊、木村雅英、斉藤正和、酒井妙子、柴田晏男、志村清、白井孝彦、清水玉子、高木恵美、田中忍、辻不二雄、亭島吉秀、土井裕子、名倉延子、福島孝夫、藤田恵玄、長尾武、政埜隆雄、松井英光、松浦木遊、松永友和、宮元正博、森田康夫、安田信之、薮田貫、山崎弘義、吉川直樹、

 三四名 (以上 内田)

 

講演の概要について 

 二〇一五年度下半期に放送された、NHK「連続テレビ小説 あさが来た」は、今世紀最高の視聴率を記録したようである(平均視聴率二三・五%)。その放送がまだ終わっていない三月二七日に、時代考証や資料提供を宮本又郎氏らとともに行った高槻泰郎氏によって、研究会総会の記念講演会「御用金政策に見る豪商と大坂町奉行所与力の関係」が行われた。 

 講演の前半は、「あさが来た」のヒロイン・白岡あさのモデルとなった加島屋(廣岡家)についてであり、後半は、御用金政策の実態と与力との関わりについての内容であった。まず、加島屋の概要説明の後、続く「加島屋久右衛門の商いとは?」において、大名貸と入替両替(米切手を担保に金を貸す)について、詳しい説明がなされた。すなわち、大名貸というと借金が踏み倒される場合が多く、商人は泣き寝入りしたと思われがちだが、うまくやれば踏み倒されなかったこと、もし大名が借金踏み倒しを行えば、大坂商人の強烈なしっぺ返しを受けることなどが解説された。さらに、萩藩が加島屋とパートナーシップを構築したように、一八世紀以降、大名貸商人と大名との間で新たな関係が形成された点も指摘された。また、古文書・史料についての説明もあり、二〇一五年五月に発見された「岡橋家旧蔵廣岡家文書」に触れられ、研究のまさに「最前線」を、ご披露いただいた。 

 講演の後半は、御用金政策についてである。これまでの研究では、御用金は「強制的」に行われたと説明されることが多かったが、そうではなく「(半)強制的」だったと述べる。この「半」がポイントであると高槻氏は言う。それは、江戸から降てくる政策が、大坂において必ずしも円滑に達成されたわけではなかったためである。まず、御用金政策の説明の後、「初期の御用金政策」と「文化年間以降の御用金政策」について述べられた。特に政策の実施過程に注目され、江戸幕府と大坂町人との間の上納金額を巡る交渉時に、与力が両者の間を取り持ったこと、その役割が大きかったことなどが解説された。 

 今回取り上げられた加島屋久右衛門については、大坂研究に少しでも関わる者にとっては馴染みのある名前だが、その商いの内実を語れる者は決して多くはない。それは、大名貸や御用金などの大坂金融市場については、その構造が複雑であり、前提となる経済史的な知識なしでは理解し難いためである。今回、この難解なテーマをわかりやすく、かつテレビ放送と関わってご苦労された点なども含め、楽しくお話しいただいた。参加者一同、非常に意義深い時間を過ごすことができた。 (松永)

 

◇新しい大塩平八郎画像の掛け軸が発見された 

 この法要・記念講演の際、新発見の大塩平八郎像掛け軸が披露された。 

これは、前会長・故酒井一先生の未整理の遺品から出てきたもので、大正年代に制作されたもののようである。掛け軸の状態はそれほど悪くはないが、羽織の家紋が大塩家の揚羽蝶でなく、白地になっている等、疑問点も多く、今後の調査が必要である。 

賛には「大塩平八郎名は後素字は子起中斎と号す大阪の与力なり少より読書を好み尤も王陽明の人物と学問とを慕う又能く吏務に熟達し大阪町奉行高井某に徴用せらる文政十二年姦吏等窃かに豪商数人と謀り政を乱り人を苦しむるの事あり事権貴の家人某に連及せるを以て人懼れて敢て之を問ふ者なし平八郎憤然捜索して悉く之を執へ其私する所三千余金を収めて市民に与ふ其成績大に揚て其名遠近に聞ゆ後致仕して専ら諸生に教授す天保八年米価俄に騰貴し市間餓死する者多し平八奉行に説て貧民を賑さんことを望めども言納れられず乃ち蔵書を売りて貧民を賑わし又危激の策を廻らし暴吏と富豪とを懲らして其財を貧民に分かたんとす謀露れ囲まれて自殺す年四十六」とある。なお、画像は「大塩事件研究会のブログ」にカラーで掲載しているので、ご覧いただきたい。(井上)

 

◇五月例会(フィールドワーク) 

 五月七日(土)、兵庫県立美術館で開催されている「生誕一八〇年記念 富岡鉄斎ー近代への架け橋ー展」を見学した。 

何故、富岡鉄斎展へ? 

 近代文人画の巨匠 富岡鉄斎は大塩平八郎の肖像を所蔵し、大塩の乱に関心を持っていたらしい。 

 有名な菊池容斎画の大塩像は同じものが二点存在する。その内の一点は大阪城天守閣蔵、もう一点は東北大学蔵だが、後者は富岡鉄斎が所蔵していたものである。 

 なぜ彼がそれほど大塩平八郎に心を寄せたのか、大塩事件研究会員としても、富岡鉄斎に関心を持ってしかるべしと、鉄斎展に出かけた次第である。 

富岡鉄斎とは何者か  一八三六年、大塩の乱前年に京都の法衣商で石門心学者・富岡維叙の次男として生まれた。幼少から国学・儒学・仏教等の学問を広く修め、書画にも親しみ、幕末の動乱期には勤皇学者として国事に奔走し、明治維新後は神官(堺大鳥神社宮司)を経て、八九歳で亡くなるまで、文人画家として多くの書画を世に送り出した。多岐にわたる壮大なスケールの作品は、後世の画家たちにも大きな影響を与えた。彼は画家として食を得ていても、あくまで学者としての矜持を失わなかった。万巻の書を読み、万里の路をゆき、以て画祖をなす というのがモットーだった。 

展覧会の構成 鉄斎のモットーに従い、一.万里の路 二.万巻の書 三.画祖となる 四.文人鉄斎の娯しみ 五.画家たちが見た鉄斎 の五構成で約二〇〇点の作品・資料が展示された。 

◆参加者一行は、まず学芸員 飯尾由貴子さんの懇切丁寧なレクチャーを受け、鑑賞した。予定した時間ではとても足りず延長したが、それでも後ろ髪を引かれながらの解散となった。自由解散後は皆さん食事や神戸散策を楽しまれたようだ。

 

 当日の参加者は、一瀬雅子、井上宏、上島朱實、内田正雄、柴田晏男、白井孝彦、土井裕子、中村和子、名倉延子、福島孝夫、薮田貫、山口五十二、山崎弘義、 

計一三名。(井上)

 

◇広報用リーフレットとホームページの作成 

 来年大塩の乱一八〇年を迎えるに当たって、会員増加を図るため、懸案となっていた、当会を紹介するリーフレットとホームページを作成した。リーフレットは、A4裏表カラー印刷を三つ折りにしたもの。表紙は菊池容斎画の大塩平八郎像。「大塩事件研究会入会のご案内」 「大塩の乱とは」「研究会活動内容」「大塩事件研究会の歩み」「大塩の乱ゆかりの史跡」「ご入会について」等を記載している。会員諸氏も是非ご利用いただきたい。 

 ホームページは経費の関係で一応ブログを利用しているため「大塩事件研究会のブログ」という名で展開しているが、限りなくホームページに近い作りにしている。 

大塩の乱を扱ったホームページとしては、従来、当会会員の個人的ホームページ「大塩の乱資料館」があって、乱に関する諸資料が豊富に掲載されており、研究者を中心に重宝がられている。従って、研究会のホームページは、会の行事予定や活動実績、各種お知らせを中心として掲載することとした。アドレスは

 

http://oosio-jiken-kenkyuu.cocolog-nifty.com/blog/

 

ホームページ名で検索可能なので、ぜひご覧いただき、ご喧伝いただきたい。(井上)

 

◇『大塩事件と泉殿宮・宮脇家』 

 藪田貫会長による講演会が四月二八日吹田歴史文化まちづくりセンター(通称 浜屋敷)で行われた。 

 通常は古民家の藏を改装したサロンで行われているが、今回は多数の出席が見込まれ同センターの和室に変更。満員の出席者の中には、泉殿宮宮脇一彦宮司(本会賛助会員)・吹田市立博物館中牧弘允館長の姿も見られた。 

 講演では「大塩事件」の概要と三枚の肖像画を見比べ、大塩平八郎は大坂の近代の鍵を握る人物であったと説明。また、時の文化人との交流などから、人間くさい人であり、文人としての再評価が必要と語る。 

 吹田市民が知りたい、平八郎の叔父に当たる宮脇志摩については、当日乱には加わらないが、遺棄された大砲の台車に氏名が書かれた主謀者の一人と述べる。 

 終了後の質疑応答では、大塩と交友があり、子息二人を洗心洞に入れた、旧吹田村の豪農橋本清大夫についての質問が出るなど、地元の関心の高さを感じた。(内田)

 

BS11「尾上松也の古地図で謎解き!にっぽん探究」で「大塩平八郎の乱」が放映された 

 同番組の第三三回 腐敗と格差への反逆「大塩平八郎の乱」が五月二四日午後九時から一時間に亘って放送された。 

 大塩の乱において、 

  ①役人・大塩が幕府にはむかった理由、 

  ②なぜ自らの豪邸に火をはなったのか 

  ③事件後の逃亡・・・歴史を変える新事実 

 これらの謎を、歌舞伎俳優・尾上松也さんと尾上右近さんが古地図を片手にひも解いた。 

 案内人は当会の藪田会長、内田さん、志村さん。志村さんはロケのお膳立てに尽力いただいたが、画面には藪田会長と内田さんだけの登場となった。 

 この番組の取材から放映に至る詳細については、本誌別欄で内田事務局長が報告しているので、ご覧いただきたい。(井上)

 

◇『瓦で政治の動きがみえる!』 

 吹田郷土史研究会藤原学会長による『吹田の古瓦を観る楽しみ』と題する講演会が、五月二九日吹田市のメイシアターで行われた。 

 この中で、白井孝右衛門衛門宅の瓦が取り上げられていたので、配布資料より転載する。 

 守口市の旧白井家住宅には、なんと江戸後期(文政七・九年)の吹田瓦が葺かれていた。白井家の当主孝右衛門は大塩平八郎の私塾・洗心洞の門下に入り、当家の離れ座敷で大塩は陽明学を講義していたという。天保八年(一八三七)に勃発した大塩の乱では泉殿宮宮司の宮脇志摩が乱に及んで行動を起こし、志摩の自害(実際は、さらに逃亡して豊中市内で死亡という。)と宮司家追放という大事件へと発展する。瓦は淀川をはさんだ吹田と守口の激動を示していたことになる。(内田)

 

◇大塩が好物にしていた「とりゐ味噌」 

 会員の上島朱實さんから「江戸時代から続くキタのとりゐ味噌」という見出しの、五月三〇日付産経新聞朝刊の切抜きを送って頂いた。 

 記事によると大阪天満宮の近くにある老舗みそ店「とりゐ味噌」は江戸時代から続く伝統の味が、今でも地元の方や参拝客のほか、外国人観光客にも人気がある。 

 現在の店主が伝え聞いた高祖母の話しでは、『江戸後期の大坂町奉行所の与力、大塩平八郎も常連で好物にしていた』という。 

 また文豪、谷崎潤一郎の妻松子は同店宛の礼状に、「白みそで作った上方風の雑煮で正月を祝えたことへの心遣いに感謝している」と書いているとのこと。(内田)

 

酒井一先生蔵書と所有史料などについて 

 先般、先生の蔵書約一万冊の納め先についてはドイツ(ベルリン国会図書館、ボン大学)へ送付したとのご報告をさせていただきました。ドイツが引き取るものは雑誌、手書き原稿、古文書類を除いたものとなっていましたので、古典籍、古文書類は自宅に残しました。 

古典籍については、酒井先生教え子(坂野加代子氏)が京都大学図書館司書であったことから協力を得て、京都大学にない古典籍なら引き取るということで、京都大学に寄贈しました。 

 残る物については、手付かずでありましたが、藪田先生と相談の結果、史料的価値がありそうなものも存在するということから、関西大学なにわ大阪研究センターに送ることにしました。そこで分析してもらい、しかるべきところに置いてもらうことになりました。 

 送る史料の総量(内容は別として)は、段ボール大箱1箱、ミカン箱4箱、プラスチック化粧箱4箱となります。 

 また生前、大塩関係の史料の散逸を避けることから、収集されてきた大塩関連「掛軸」については、藪田先生と相談して、成正寺に寄贈し保管されるのがいいのではないかとアドバイスを頂きその方向で進めていきます。 

 中身については包装紙に包んだままのものは開封せずに送ります。研究会のほうで見ていただきたいと思います。分かるものとしては、思文閣から購入された「平松君の要望で書いた軸」(購入価格は六〇万円)などがあります。全部で9幅。 

 これにより、酒井家にある酒井先生の研究事項、大塩並びにその時代に関連した史料などについては全て関係諸機関などへ寄贈・送付されたことになります。(岸本隆巳)

 

◇会員の動静 

◆島田耕氏が監督として制作したドキュメンタリー映画『びわ湖・赤野井湾 2015』については、本誌七三号の本欄にも紹介された。 

 この度「オール沖縄」のたたかいの源流を描いた、長編ドキュメンタリー映画『沖うちなあ縄ぬ思うむい』を、制作委員会の副代表として完成した。 

 現在、各地で試写会・上映会を開催中。今も基地がある故に、いろいろな事件や事故が起きて県民が苦しんでいる沖縄。機会を得て沖縄の歴史、県民のご苦労、また豊かな自然を知るためにも是非見たいと思う。(内田)

 

◆長尾武氏は退職後、地震・津波研究に打ち込まれ、「安政南海地震津波の教訓」等の著作があり、当会でもご講演いただいている。この度、氏の論文「宝永地震(一七〇七年)津波による大坂市中での津波高・浸水域」が立命館大学歴史都市防災研究所の「京都歴史災害研究第一七号」に掲載された。 

 宝永四年一〇月四日未刻(午後二時頃)日本史上最大級の地震、M八・六の宝永地震が起こり、津波が伊豆半島から九州に至る太平洋沿岸を襲った。海上交通の要衝であった大坂は津波によって、特に甚大な被害を被った。 

 氏は主に三つの観点から検討を重ね、宝永地震による大坂市中での浸水域を推定された。現在の大阪市は、近代以前には田園地帯であった湾岸部が人口稠密な市街地となった。さらに都市化・工業化の進展による地下水の過剰な汲み上げによって、今や海抜〇㍍地帯が二一平方キロに及んでいる。宝永地震クラスの津波が襲ったなら、江戸時代よりもさらに大きな被害を受ける恐れがあると、氏は警告している。(井上)

 

◆久保在久氏(本会前副会長)が、文芸投稿誌「蔕(へた)文庫」(当会委員松井勇氏主宰)に連載しておられる「大阪砲兵工廠(ほうへいこうしょう)物語」が、大阪産業労働資料館のエル・ライブラリーで紹介されたので、その一部を転載する。

 

 「若い人には『大阪砲兵工廠』といっても、今は大阪城公園として整備されている所が、戦前日本最大級、アジア最大級の兵器工場であったことを知らない人が多いと思うが、今回の連載は一九八七年に久保が編纂した『大阪砲兵工廠資料集』(上・下/日本経済評論社)にもとづいており、その大部な『資料集』の実績の上に、明治以降の新聞記事を丹念に追って、見開き二頁の読みやすい分量で、テーマごとにわかりやすく解説されている。 

 『資料集』編纂当時は『戦争の残骸にあたる施設などの研究』は進んでおらず、その頃まだ存命中であった関係者またはその遺族らを訪ね歩いて集めたこの資料集は、『日本産業技術史学会資料特別賞』を受賞したほどに、高い評価を得た。 

 著者の『大阪砲兵工廠』検証の基本的姿勢は、『大阪産業革命の原点』としての評価にあり、この視点が今回の連載にも貫かれている。 

 連載の始まり(一)は、そのような連載の意図が書かれている。 

 (二)では、一八七〇年に始まる工廠の歴史、日本最後の内戦となった西南戦争(一八七七年)における兵器補給廠としての役割が描かれている。東京砲兵工廠に対して、大阪は大砲を中心とする重兵器の生産を任務としていて、西欧先進国の最新技術が取り入れられた。 

 (三)では、西欧の最新技術を吸収するために、イタリアから『外国人教師』を総理大臣を上回る厚遇で招き、その技術指導の果たした役割を追っている。 

 (四)では、『最初の大規模労災』として、一八八〇年八月爆発事故で三〇人が即死、一二名が危篤状態で病院に運ばれたが死亡、この事故の悲惨さを、一二歳の少年工の死去についての新聞記事から拾って記述している。 

 一二歳の少年を雇用していた労務構成への注目や、この事故を『労働災害』として追っている、労働現場を経験している著者ならではの視点が興味深い。 

 紙幅の関係で順を追って紹介はできないが、近く発行される(七)では、大阪砲兵工廠の技術が全国各地に広がった展開が追われている。日清戦争直前に建設された砲台を追って今春対馬まで行き、『砲台跡』を検分して、『歴史を学ぶものはやはり現場に立つべきだ』との思いを強くしたと述べている。 

 この連載を所収している『蔕文庫』(編集・発行人=松井勇と編集スタッフ)は、年四回発行の文芸投稿誌で、ジャンルを問わずユニークな投稿作品が寄せられている。この種の文芸誌が規則正しく季刊で発行され、すでに六〇号を突破していること自体に、心から敬服し、定期発行のためのご努力の大変さを推測する。 

 久保氏は『蔕文庫』が続くかぎり頑張ると言われており、連載をまとめての出版を期待したい。久保氏はこの『蔕文庫』の編集委員でもあり、歴史研究者として知る人ぞ知る存在である。・・(伍賀偕子) 」

 

 以下、久保氏のプロフィールが紹介されているが、これは本誌七一号の「大塩と私」(一八)「久保在久氏に聞く」に詳しいので略す。(井上)

◇会員の訃報  土居年樹氏 二〇一六年八月二三日前立腺ガンのため逝去。享年七九歳。

 永く天神橋筋商店連合会会長を務め、商店街の振興・活性化に取り組む実戦派まちづくりのリーダーであった。
また、上方落語の定席「天満天神繁昌亭」の会館に尽力された。
 本会には二〇一一年六月に入会。入会前の二〇〇六年に「天三おかげ館」を中心に行われた「大塩事件研究会創立三〇周年行事」などにご協力をいただいた。(内田)

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2016年6月19日 (日)

洗心洞通信62号(大塩研究74号)2016年2月

◇七月例会
 七月一九日成正寺にて二二名が参加し行われ、松永友和氏(徳島県立博物館学芸員・本会委員)から「天保改革期大坂の人足寄場」と題して講演を頂いた。
「人足寄場」と云えば、寛政二年(一七九〇)、火付盗賊改長谷川平蔵が老中松平定信に建言し、江戸に設置。無宿への授産・更正という無罪の無宿者に対しての知恵伊豆・鬼平の仁政程度の知識しかなかった。
 今回大坂でも代官所の人足寄場が天保一四年(一八四三)に設置されたと、「大坂代官竹垣直道日記」を資料に指摘。村々からの資料により、「人足寄場」の活用を読み解き、歴史的背景も考察された。

当日の参加者は、有光友昭、一瀬雅子、井上宏、内田正雄、奥村勇、奥村喜一、北村静子、木村雅英、斉藤正和、柴田晏男、志村清、白井孝彦、田中忍、土井裕子、中井陽一、中村和子、二木貴久、松井英光、松尾寿、松永友和、薮田貫、山崎弘義計二二名(内田)

◇一〇月例会(フィールドワーク)

 一〇月一一日(日)薄くもりの絶好のウォーク日和にも恵まれ、二六名が参加し行われた。
 
今回はテーマを「大塩平八郎ゆかりの史跡めぐり」と名付け、大塩の史跡・大坂城にくわしい本会委員の志村清氏に案内して頂く。歩き始めてすぐの八軒家船着場跡は、江戸時代には淀川水運の要衝であり、平安時代からは熊野街道の出発点として賑わう。右手に見える「天満橋」は寛永年間から幕府が直接管理し補修した一二の公儀橋の一つ。大塩の時代から幕末にかけての公儀橋、奉行屋敷・与力町の状況を古地図・古い貴重な写真を使っての説明。

大坂城内に入ってからは、専門家である志村氏自身がトレースした「大坂城総絵図(江戸末期)」・天守閣・本丸・各種櫓と現在の姿を見比べる。

長時間にはなったが、参加者の皆さんは志村氏の豊富な知識と資料による案内に十分満足を頂いたと思う。

それにしても平成二七年の流行語大賞「爆買い」の余波か外国人の目立つ、現在の大阪城であった。

 

[主なコース] 天満橋八軒家代官所跡東町奉行所

弓奉行跡(近藤重蔵)京橋口大坂城城代屋敷跡本丸御殿跡加番屋敷跡玉造定番与力柴田勘兵衛屋敷跡JR森ノ宮駅(解散)


当日の参加者は、一瀬雅子、井上宏、上島朱實、内田正雄、北村静子、木村雅英、柴田晏男、志村清、白井孝彦、外村禎彦、竹村恵子、田中忍、寺井正文、土井裕子、中井陽一、中野フサエ、中村和子、長坂保子、名倉延子、二木貴久、深尾健達、福島孝夫、松井勇、松森茂子、安田信之、山崎弘義計二六名(内田)

 

一一月例会

一一月二八日成正寺において例会が行われ、藪田貫氏(関西大学名誉教授・本会会長)から「大塩平八郎と藤沢東畡」と題し講演いただいた。

大塩平八郎と藤沢東畡は、ほぼ同世代であり、大塩が洗心洞を、讃岐から大坂へ来た東畡が私塾を開いたのも、ほぼ同時期である、二人はそれまでの懐徳堂中心の世界に新風を吹き込んだが、同時に漢蘭学の興隆も加わり、大坂の学問世界は活性化していったと述べ、続いて当代の学者・広瀬旭荘、篠崎小竹らの大塩平八郎の乱との関わり、それぞれの思いに触れるとともに、洗心洞に学び、乱後には東畡と交流のあった田結庄千里の生涯を通して当時の大坂の学問世界を活写した。

そして大塩の乱は第二期のピークを迎えていた大坂の学問世界にとっては損失であり、その流れに水をさした格好となった、学者として別の行き方はなかったろうか、それだけ大塩の学問の水準が高かったと結んだ。さらにそのことから大塩平八郎という存在を大阪で回復することの重要性、必要性を加えた。

会場には東畡の出身地である高松の個人蔵になる東畡の書状など古文書が展示され、藪田氏より解説が行われた。

 

当日の参加者は、有光友昭、井上宏、上島朱實、内田正雄、奥村勇、北村静子、斉藤正和、澤田平、志村清、白井孝彦、辻不二雄、寺井正文、土井裕子、名倉延子、橋本久、畑中進、福島孝夫、松井英光、森田康夫、安田信之、藪田貫、山口五十二計二二名

 

大塩の乱の肥後への波紋

熊本日日新聞社では熊日新書というシリーズを発行していて好著が多いが、その中の猪飼隆明『熊本の明治秘史』(一九九九年)で大塩の乱の肥後の一地方への波及について取り上げている。

熊本市河内町船津の尾跡(おあと)という集落にある地蔵堂は、今も地蔵講により年一回の祭りが営まれていて、その祭りの記録である『地蔵講帳』が残されているが、内容は民情にも及んでいるため貴重な資料となっている。『熊本の明治秘史』より該当部分を引用する。

尾跡の『地蔵講帳』も、四ページにわたって、事件をこと細かに書き記している。平八郎が「文才日本に今頃多くはいない」学者であること、「世上飢渇の成行」「大坂町屋飢に及び候者間々多く」という状況を見かねて、「自身の大事な書物等を売り払い、難渋の者」に与えるなどしたこと、挙兵のいきさつ、そして「一向行方分からず、その後奥州・松前の辺に面出したる風聞なり」と記している。事件は「前代未聞のこと」ではあるが、「誠に万民の憐忍び難き候より起こりたるにや」と共感を示している

同書は少し前の発刊であるが、『別冊歴史読本・熊本』(二〇一三年)でも同じ著者の文章の中で取り上げられている。


西條奈加『六花落々』の中の大塩像

三嶋明氏(東京都渋谷区在住)より、西條奈加『六花落々(りっかふるふる)』(祥伝社二〇一四年一二月刊)の中に大塩平八郎が登場しているとの情報をいただいた。

古河藩下級武士の主人公・小松尚七は「何故なに尚七」と綽名されるほどの質問魔で周囲の者から五月蠅がられているが、先手物頭(のち家老)の鷹見忠常(のち泉石)の目に留まり、次期藩主の土井利位の御学問相手に抜擢される。尚七はやがて藩主となった利位とともに雪の結晶の研究に没頭し、『雪華図説』の刊行に漕ぎ付ける。

その二年後、土井利位の大坂城代拝命に伴い大坂に来た小松尚七は書籍商で大塩平八郎と邂逅するのだが、その傲岸な態度に少々面喰いながらも勧められるままに洗心洞に入塾する。やがて尚七は大塩の「治世」の考え方に小さな矛盾を感じ退塾するのだが、その後大塩の乱が勃発するというストーリーである。

大塩の乱に関してこの小説の特徴を云うならば、制圧者側から乱を見ている点である。書中の鷹見忠常の大塩を批判している言葉にそれがよく表れている。

 

早見俊『大塩平八郎の亡霊』

祥伝社文庫・二〇一五年七月刊の時代小説であるが、編集子は著者について知らないので、著者自身のホームページを覗いたところ、一九六一年生まれ、二〇〇七年から執筆活動に専念している作家で、「時代小説とは、歴史的事実に関係なく歴史上の一時代が舞台になった物語で、登場人物や事件などはほぼすべてが創作によるものです。(後略)」と断り書きが記されていた。

本書はシリーズ第三作で、主人公・寺坂寅之助は時代遅れの戦国武者のような武士で得意の鑓を手に悪人を成敗するという内容になっている。著者自身が「肩の凝らない娯楽時代小説です」と言っているように、大塩平八郎の弟子で乱の直前に建議書を持って逃亡した首謀者が幕閣に取り入り、水野忠邦暗殺を企むことをモチーフに、逃亡中の大塩平八郎が乗船しているという風聞のあるモリソン号から逃げ出し海賊行為をする「大塩海賊」、悪徳米穀商に天誅を加える「大塩天狗」が加わり、娯楽性満載の小説となっている。


飯島和一『狗賓童子の島』が司馬遼太郎賞受賞

司馬遼太郎記念財団主催の第一九回司馬遼太郎賞に飯島和一の『狗賓童子の島』が決定した。産経新聞二〇一五年一二月二日号より引用する。(本会会員・志村清氏からの情報提供)

受賞作は大塩平八郎の乱に関係して隠岐島に流された少年を主人公として、幕末から明治初期にかけての同島の激動の時代を描いた歴史小説。「司馬遼太郎もこだわった幕末史に新しい光をあてた」と高く評価された。飯島さんは会見で「従来の『正史』とは違う角度でものを見てみたかった。こういう機会を与えていただき感謝している」と話した。


『狗賓童子の島』時代小説ベスト1

『オール読物』一二月号に「時代小説、これが今年の収穫だ!」という年末特有の企画がある。当代きっての目利きが選んだ絶対読むべきベスト10と副題も付く。

今回は二人お目利きが、それぞれ一〇冊の収穫を選び、選評と簡単な内容を紹介している。選者のひとり時代小説作家末国善己は、十選からあえてベスト1を選ぶなら、徹底した考証と骨太の物語、重厚なテーマが一体となった飯島和一の「狗賓童子の島」を挙げると書いている。(内田)

 


大丸と大塩平八郎(続報)

前号本欄の「大丸と大塩平八郎」で、大塩が乱に当たり「大丸は義商なり、犯すなかれ」と部下に命じたため攻撃目標から外され、事なきを得たことが大丸の社史に載っていると紹介したが、日本経済新聞二〇一五年一二月一一日号の「私の履歴書」欄にJ・フロントリテイリング相談役の奥田務氏が大丸入社時の新入社員研修で同様の話を聞いたことが出てくる。それに対する若き日の奥田氏の気概とその後の成長振りを思わせる記述が関心を惹いたので紹介する。(註・J・フロントリテイリングは大丸と松坂屋の経営統合により設立された持株会社)

経営理念の話もあった。儒学の祖の一人である荀子の言葉から採った「先義後利」というもので、その意味は「企業の利益はお客様と社会への義を貫き、信頼を得ることでもたらされる」。天保八年(一八三七)に大阪で多くの豪商が一揆の焼き打ちに遭った大塩平八郎の乱があったが、大丸は逃れることができた。大丸は徳義を重んじる家風が庶民にも広く知られ、乱の頭領の大塩が「大丸は義商なり、犯すなかれ」と命じて難を逃れたこともある。

先義後利の話を初めて聞いたときに「利益を追求するためにお客さんや社会への言い訳のようなもので詭弁だ」と思った。しかし後に経営者となってすべての経営活動において先義後利の視点を欠くと、必ずと言っていいほどうまくいかなかった。(傍線は編集部)

 


大阪天満宮の御文庫(続報)

前号の本欄にて朝日新聞夕刊の連載コラム『大峯伸之のまちダネ』で「住吉と天満の御文庫と大塩平八郎」について取り上げている記事を紹介したが、その後同紙二〇一五年一二月一七日号の同コラムで大阪天満宮の御文庫に収蔵された書物の曝書(虫干し)の様子に触れているので、その一部を転載する。

2階建ての天満宮の御文庫に入ると、書棚には本がぎっしり積み上がり、文字通り「書林」のようだ。1837(天保8)年、大塩平八郎の乱で建物と蔵書が焼けたが、その後、大阪の出版元が漢籍や和書などを奉納してきた。慶長年間に刊行された古い本も含め、いまでは10万冊余りが収蔵されている。

この日、法被姿の出版協会の人たち40人余りと天満宮の神職らが御文庫から主に漢籍を外に運びだした。別の建物でほこりをはたき、ページをめくって空気にあてる。全部の本の虫干しが終わるまで10年はかかるという気の長い奉仕作業だ。

 


井形正寿氏の反戦への思い(続報)

本誌第七二号の本欄にて元本会副会長の故・井形正寿氏に関して、その特高時代の経験を通じての反戦への思いを島田耕氏(本会会員)が語っている新聞記事を取り上げたが、その後の動きについて島田氏より次の通り情報をいただいたので紹介する。

十一月二三日付信濃毎日で「特高」の連載記事で島田とあってと、連絡があった。九月、共同通信社の記者が東京から井形正寿さんを調べていると訪ねてきた。昨年は東京新聞が、戦後七〇年にむけて特高を取材している、井形正寿についてとやってきた。

大塩事件研究会、大阪民衆史研究会で私は井形さんに親しくしていただいた一人。また、映像による井形さんの証言をと、大阪民衆史研究会の例会で井形さんが話をし、その取材を了承いただき、友人山添哲也やカメラマンが記録した映像が私の手許にある。

井形さんと同世代で大塩事件研究会などで親しかった方々がもういないことから、私は二度の取材を受けたことになる。共同通信社からの連絡はまだないが、信濃毎日紙の他にも、特高特集で井形さんをとりあげていると思う。


 

泉殿宮(いづどのぐう)社殿葺き替え

大塩平八郎の叔父で乱にも深く関わる宮脇志摩が第三二代宮司を務めた吹田市の泉殿宮(大塩研究七二号に訪問記事がある)で、社殿葺き替えを始めとする境内等の整備事業を行う。

ご子孫で第三六代宮司宮脇一彦氏(本会賛助会員)のお話によると、明暦三(一六五七)年に再建された現在の本殿は屋根を銅板に改め五五年経過し、建物全般にも損傷が出始めた。受け継いだものを後世に伝えるため、新築とせず屋根の葺き替えと各所修復・境内整備を行うとのことである。

平成二八年二月着工で一一月竣工の予定。(内田)


会員の訃報向江強氏(元副会長)

二〇一五年九月二〇日午前七時、寝屋川市の小松病院で肺炎のため逝去され、同二二日ご長男正一氏を喪主とする家族葬が同市玉泉院で執り行われた。享年八六。同氏の経歴、本会とのかかわり等については、本稿掲載の追悼記事を参照されたい。

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洗心洞通信61号(大塩研究73号)2015年8月

洗心洞通信61号


◇一月例会
 一月三一日成正寺において例会が行われ、澤田平氏(真田幸村公資料館館長、「開運!なんでも鑑定団」鑑定士、本会会員)から、「大塩先生と天文学」と題して講演いただいた。

よく知られる大塩平八郎肖像画(複製、原本は東北大学図書館蔵)を参照しながら、そこに描かれている渾天儀、象限儀などの天体観測器具について触れ、高名な歴史学者が大塩は天文研究をしていないと言っているが、大塩は確かに戦術上の学問として天文研究をしていた、またこれらの天体観測器具はあとから描き加えられたものという説もあるが、これも誤りであるとの指摘があった。偽書かもしれないとの断りのうえで、大塩の天文研究に関する著書として『天象簡抜(てんしょうかんばつ)』(複製、原本は大阪府立図書館蔵)の紹介もあった。

澤田氏は「文献研究よりもモノ(現物)に基づく研究を中心とし、講演は『動く博物館』と名付け、現物を手に取ってもらうよう心がけている」との方針を持たれ、当日も古文書のほか地雷火や銃砲類など参加者全員が手に取って確認できるよう配慮いただき、理解を深めることができた。

 また大塩平八郎の取った行動について、義挙か、暴挙かという問題提議があり、自分としては尊敬、礼賛はするが、その行動すべてがよい訳ではなく、中には暴挙という面もあったという立場をとるとの表明があった。その理解のためには、大塩の乱を桜田門外の変、寺田屋騒動、天誅組などと比較検討することが重要で、単に義挙とか暴挙とかで片づけるのではなく、自分としては歴史の真実をさらに見極めたいとの熱い抱負を語られた。

 当日の参加者は、有光友昭、泉谷昭、井上宏、内田正雄、小川治海、北村静子、澤田平、柴田晏男、白井孝彦、志村清、神藤勵、竹本章、辻不二雄、土井裕子、中倉篤、二木貴久、橋本暁三、東喜代和、福敬二、前田実夫、松井勇、山口五十二、山崎弘義、山本栄司、吉冨敏朗 計二五名   


◇成正寺法燈継承式
 大塩事件研究会の所在場所でもある「讀誦山 成正寺」様の法燈継承式が、二月二十二日(日)同寺本堂にて執り行われ、本会顧問の第二十世有光友信住職が退任、ご子息有光友昭師が第二十一世住職を継承した。

 式は日蓮宗の本山や干与人等のお上人方、総代をはじめとする檀家の方々、加えて本会からは藪田会長、内田事務局長が出席した。

 式典は日蓮宗の式次第に則り、昇堂の後、第二十世より拂子を託された新住職は力強く奉告文を読み上げ、今後の更なる精進を佛祖三宝に誓った。

本会会員でもある松井英光日蓮宗大阪市宗務所長の祝辞や祝電披露のあと檀家総代の挨拶があり退堂となる。

 この後、会場をリーガロイヤルホテル大阪に移し祝宴が行われ、藪田会長が成正寺と大塩家、大塩事件研究会に触れた挨拶をした。(内田)


◇大塩中斎忌法要・記念講演と総会
 二〇一五年三月二八日午後一時半から成正寺において、同寺主催の「大塩父子及び関係殉難者怨親平等慰霊法要」が有光友昭住職によって営まれ、本堂にて看経の後、墓碑に展墓した。

 その後、本会主催の記念講演会が行われ、森田康夫氏(本会会員)が「大塩陽明学と三宅雪嶺を結ぶもの」と題して講演した。三宅雪嶺(一八六〇~一九四五)は、加賀国金沢の藩医の家に生まれ、草創期の東京大学で哲学を学んだ。一八八八年、志賀重昂、杉浦重剛らと政教社を設立し、雑誌『日本人』(後に『日本及日本人』と改題)に参画、日本主義を標榜する政論家として注目を集めた。森田氏によれば雪嶺の今一つの顔として、東洋哲学を代表する陽明学、とりわけ近世末の大塩平八郎の良知の哲学に着目し、西洋哲学を代表するヘーゲル哲学との対比の中で東西哲学の融合化を進めようとした。それがヘーゲル『精神現象学』に対する『宇宙』にはじまる『東洋の教政対西洋の教政』(法哲学)『人類の生活状態』(精神哲学)『東西美術の関係』(美学)『同時代史』(歴史哲学)として構想されていたことを明らかにされた。しかし雪嶺哲学は学界の長老井上哲次郎を始め哲学研究者からも無視され、発表機関の『日本及日本人』はマイナーな雑誌のために、大塩陽明学を継承する雪嶺哲学は見失われてきた。その意味から近代日本思想史の中に雪嶺哲学を位置づける意義を訴えられた。

 小憩の後、内田正雄事務局長の司会進行で総会が開催された。藪田貫会長の開会挨拶に続き、二〇一四年度事業報告、会計報告があり、土井裕子会計監査委員から会計監査報告がなされた。その後、二〇一五年度事業計画、役員改選の報告の後、閉会挨拶を経て総会は終了した。

本年度は役員・委員の改選時期に当たり、新執行体制は以下の通りとなった。(会長)藪田貫、(副会長)常松隆嗣、(事務局長)内田正雄、(委員)井上宏、柴田晏男、島田耕、志村清、白井孝彦、辻不二雄、西山清雄、福敬二、松井勇、松浦木遊、松永友和、山崎弘義、(会計監査委員)土井裕子、政埜隆雄、(顧問)有光友昭。尚、今回の退任者は、久保在久(副会長)である。

 当日の参加者は、有光友昭、泉谷昭、井上宏、内田正雄、澤田平、酒井妙子、柴田晏男、島田耕、志村清、白井孝彦、荘茂樹、清水玉子、辻不二雄、亭島吉秀、土井裕子、中野フサエ、西山清雄、二木貴久、政埜隆雄、松井勇、松井英光、松浦木遊、松永友和、松森茂子、森田康夫、安田信之、薮田貫、山崎弘義 計二七名


◇五月例会(フィールドワーク)
 五月三一日一三時三〇分JR福島駅を出発。今回のテーマは「大塩平八郎の時代を訪ねる」で、案内役は本会委員の内田正雄氏、山崎弘義氏にご協力いただいた。

 一行は駅から数分のところにある浄祐寺に向かい、酒井一前会長の墓所に詣でた。当寺は酒井前会長の実家であり、現在は実兄が住職を務められている。境内には忠臣蔵の矢頭右衛門七と五大力の墓もある古刹である。次いで堂島川に面して建つ福沢諭吉誕生の地(中津藩蔵屋敷跡)碑を経て、なにわ筋を南下、靭公園にて小憩した。その後、近くの天理教飾大分教会前にある「大塩平八郎終焉の地」碑に至る。碑文の草案は酒井前会長、題字は書道家澤村宗一氏の揮毫で一九九七年に建立されたものである。次に教会裏手にある終焉の地(美吉屋跡)に行く。現在は旧敷地内に法人所有のビル(石本ビル)とマンションが建っているが、大塩父子が匿われていた隠居所はマンションの西南の辺りで、その裏には現在も大阪市の下水道として使われている背割下水(太閤下水)が地下を流れる路地の細い道が残っている。

 一行は大塩平八郎の行迹に思いを馳せながらさらになにわ筋を下り、長堀通りの中央分離帯にある「間長涯天文観測の地」碑に至った。間長涯(重富)は質業を営む裕福な商人で、麻田剛立に天文学を学び、寛政の改暦事業に参加した。長男の重新(しげよし)も父の跡を継ぎ天文学者として名を成したが、大塩には天文学を教えたり、公刊書の蔵板主になるなど密接な関係であった。その後、和光寺、木村蒹葭堂邸跡を経て、最終目的地の土佐稲荷神社に到着した。

 土佐稲荷神社は土佐藩の蔵屋敷内にあった鎮守神であるが、名作『大塩平八郎』を書いた森鷗外には『堺事件』という佳品がある(ともに岩波文庫版に入っている)。慶応四年堺で起こったフランス兵と警備をしていた土佐藩士との武力衝突に材を取ったもので、フランス側の下手人二〇名差し出し要求に対して名乗り出た土佐藩士二五名からの人選を藩主の決断で次のように伝える場面が出てくる。

 「此度差し出す二十人には、誰を取り誰を除いても好いか分からぬ。一同稲荷社に詣って神を拝し、籤引きによって生死を定めるが好い。」

 ここに出てくる稲荷社が現・土佐稲荷神社と思われるが、神社側に記録は残されていない。これにて一七時解散となり参加者は帰途についた。

当日の参加者は、一瀬雅子、井上宏、内田正雄、奥村喜一、木村雅英、酒井妙子、白井孝彦、志村清、神藤勵、田中忍、辻不二雄、中井陽一、中村和子、福島孝夫、藤吉悦子、藤原勝、政埜隆雄、松井勇、山崎弘義、吉川直樹 計二〇名


◇福田世耕について(続報)
 前号本欄の「湯川麑洞と福田世耕」で紹介した福田世耕について、その後いくつか情報が寄せられている。入手順に続報として掲載させていただく。

①前号紹介の際、「湯川と福田の間に直接交流があったかどうかは不明であるが、共に新宮の生まれであり、福田世耕にはある種の共感があったかもしれない」と書いたが、それについて杉中浩一郎氏(和歌山県田辺市在住)より、次の示教をいただいた。

「先号の「洗心洞通信」の「湯川麑洞と福田世耕」には私も関心を持ちましたが、この二人の間には直接の関係はほとんど無いとみられます。福田世耕(いくつもの雅号を持ち、一般には福田静処として知られています)は、慶応元年(一八六五)生まれで、湯川麑洞の方は明治七年(一八七四)に亡くなっているからです。ただ麑洞は明治六年に新宮小学校が設立されて教授に任ぜられていますので、世耕はそのころ同校の生徒であった可能性があります。教師と子弟の関係は別にしても、二人とも熊野の代表的な漢詩人ですから、世耕の方には先輩詩人としての認識があったことは言うまでもありません」

②前号本欄の記事に情報提供いただいた荘茂樹氏(大阪府枚方市在住)より福田世耕についての論文・山本四郎「福田静処(破栗・古道人)小伝―その前半生―」(『神戸女子大学紀要』二六巻文学部篇一九九三年所収)を紹介いただいた。前号掲載以降、「福田世耕とはどのような人ですか」と尋ねられることがあるので、その人となりについて同論文より引用したい。

 「古道人福田静処(慶応元年・一八六五ー昭和一九年・一九四四)は和歌山県新宮の生んだ、隠れたる高雅な文人である。生涯高風を持し、名声を求めず、金のために描かず、ためにその名声の世に顕るることすくなく、八十の生涯を孤高の裡に過ごした。本姓中村氏、のち福田家を継ぐ。十五歳京都に遊学して絵画と詩文を学び、二十歳頃俳句に傾倒したが、その本領は漢詩にあったという。雅友多く、奇行また少なくない。」

 「静処は名は世耕、字は子徳、雅号は静処、別に古道人、また碧翁と号し、俳号は初め破笠、のち杷栗と改め、別に遠人とも称した。」

 世耕は新宮藩士・与力の家に生まれた。一五歳のとき京都に出て数年間、絵画と詩文を学び、帰郷の後数年して上京、中国文学の塾を開いた。三一歳のとき俳句の研究を始め、正岡子規、高浜虚子らと交わった。翌年新聞『日本』に校正係として入社、このとき天田愚庵と出会い意気投合し、その後も交友が続いている。三六歳のとき京都に移り、文人生活を送った。スポンサーも得たようであるが、狷介孤高な生き方のためか、生活苦に悩まされたようである。

 その後荘氏からは、論文・松本皎「桃山泰長老の蓑笠亭主人」(『立命館百年史紀要』第十三号二〇〇五年所収)の中の「六 杷栗と愚庵と蓑笠亭」にも福田世耕について天田愚庵との交流を軸に略述が書かれているとの情報をいただいている。

③二〇一五年二月一七日放送の『開運!なんでも鑑定団』(テレビ大阪:テレビ東京系列)の中の「出張!なんでも鑑定団IN神戸」のコーナーで、「『こどうじんの掛軸』ということ以外、何もわからない」という依頼人が登場し、鑑定を仰いだ。鑑定士の安河内眞美(古美術商店主)によれば、「こどうじん」とは「古道人」であり、「近代南画の大家」である「福田古道人」のことで、独特の色遣い、目に焼き付くような原色などにより米国でも人気が高いという。新宮生まれで、「古道人」は近くの「熊野古道」からきているとの説明もあった。鑑定結果は真作で、依頼人の評価額一〇八万円に対し、一五〇万円の評価となった。

 


◇福田世耕と三宅雪嶺

 前項②にて引用した論文「福田静処(破栗・古道人)小伝-その前半生-」によれば、福田世耕は三宅雪嶺と雑誌『日本』で同僚だったということである。三宅雪嶺は森田康夫氏により、三月の総会記念講演で取り上げられ、また本号巻頭論文の中でも触れられている。これで福田世耕は大塩平八郎に関して、湯川麑洞(七十二号九七頁参照)と三宅雪嶺という二つの情報源を持つことがわかったが、果たして耳に入っていただろうか。上記論文の当該部分を引用する。(傍線は編集部)

 「静処は明治三二年に新聞「日本」に校正係として入社した。同紙は明治二二年に、明治の言論界の雄陸羯南(本名中田実)が創立した国粋振起のための新聞で、子規は明治二五年に社員として入社し、和歌・俳句その他に健筆をふるった外、和歌・俳句の選者でもあった(中略)から、或は静処の入社もその推挙にかかるものであろう。社内では三宅雪嶺や中村不折画伯と机を向いあわせていたという。」


◇今治藩における天保の飢饉
 前号本欄にて「大塩平八郎の乱と今治藩」について紹介したが、同記事を読まれた今治市在住の越智悦夫氏(伊予史談会、今治史談会)より、ご自身が編集・発行された『大山積神社御當記録』(二〇一二年刊)の中に描かれている同地域における天保の飢饉の状況についてご教示いただいた。内容は次の通りである。(いずれも天保八年の記録)

一去申秋ハ、郡中大凶作ニ而、稲作ハ勿論其外諸作、何ニ不寄不作ニ而一統及難渋候。酉夏麦作を相祈候所ニ、又候麦作も半作位与申唱候。是ハ当所ニハ不拘、諸国大不作ニ而有之、申暮ハ村々ゟ作喰年越米等相歎キ出、御上ゟ凡二千俵も村々百姓共へ被下置、右ニ准シ飢人願も過分ニ有之、酉四月中旬迄ハ飢扶持下置候処、四月廿一日ゟ極難渋者、物嘱ひ者等村々ゟ申出、当村明神社ニおゐて御救小屋相懸り、日々粥被下置、漠大成難有事、難尽筆紙、九月壱合宛右粥被下置候所、夫ゟ又壱人前釣五勺も、粥米与して被下置候。尤九月一杯被下置候事。

 一米直段も二俵ニ付、二月銀納当札四百五拾四匁四分、麦も右ニ准シ高値、其外大豆小豆何ニ不寄、喰物ニ相成候品高値ニ而、右御上ゟ御救有之候而も、野辺ヘ飢死有之事。数多之事。

 一猟師町辺、物嘱ひ日々夥敷参り、こまり入申候事。

 一翌子秋ハ大豊年与申唱、九州四国路ハ別而豊年ヲ申沙汰有之、乍併前年不作有之故歟、又大洲辺凶作之趣ニ相聞、上方筋御初米、小廻ニ而(米)直段九月頃迄も四百目程もいたし、殊ニ小前之者共、日用立方必至ニ相逼り候儀ニ候。追々秋作苅入時合、霜月頃ニも相成候ハ、直段引下ケ候与申察候ニ有之、先右荒々於当席、丈略相印置候者也。

 「御當(オトウ)」とは「同族団もしくは地縁共同体としての氏子が祭祀集団を構成し、当番制でその集団が奉斎する神社の祭祀を執行するための組織および行事」のことであり、本記録は慶長年間から大正六年の三二〇年間に及んでいて、地方史のみならず、大塩の乱及びその各地への影響を天保の飢饉の全国的な広がりとの関連で捉えることのできる貴重な史料である。

 神社の現表記名は「別宮大山衹神社」であり、今治市別宮町に所在、四国霊場第五五番札所の南光坊に隣接している。(明治期の神仏分離まで両者は一体であったとも言われている)また、別宮大山衹神社には、「理海尼の石燈籠」と呼ばれる天明三年銘の飢饉記録が刻された珍しい石燈籠も現存している。


◇「拙堂文話」の今日的意義
 齋藤正和氏(本会会員)はこの度、齋藤拙堂『拙堂文話』を全訳注した『全釈拙堂文話』を上梓された(明徳出版社、七月三〇日刊、A5判上製箱入り、六七二頁、定価八千円+税)。詳細は本号所載の氏による「『全釈拙堂文話』の発刊にあたって」を参照いただきたい。

 原著は漢文で書かれたものであるが、周知のごとく日本は前近代において漢文を公式文章語としてきた国柄である(視点によっては敗戦まで続いていた)。江戸後期の外憂内患時代に生きた拙堂にとって文章は形式的なものではなく内容が重要であること、そして文章とは、それを貫く思考が中心となり、気が満ちていることが大切なのであって、修辞はそれを補うものであると主張した。

 『拙堂文話』は武士のために書かれたが、今日武士はいない。しかし今こそ「士」が求められている時代もなく、本書の今日的意義はそこに存在すると思料する。


◇謎解き
 人物伝
 讀賣新聞六月二三日(火)夕刊「ええやん!」欄で『大塩平八郎が選んだ破滅的最期」との記事が半頁に渡り掲載されています。

大坂東町奉行所与力時代の活躍、乱の背景・経過などと「大塩平八郎終焉の地・石碑」の説明。

また「不正告発 江戸に届かず」の見出しで、決起前日に幕府首脳・林述齋・水戸藩主徳川斉昭に送った『建議書』についても触れています。

これには「建議書が物議を醸す中、大坂で乱が起これば幕府も動かざるを得ないと考えた。ただの暴動でなく、計算の上の両面作戦だった」と推測する本会藪田会長のコメントが掲載されています。

(注)見出しの「不正告発 江戸に届かず」、記事中の「この建議書は江戸に届かないまま、長く埋もれていて、内容が知られることはなかった」、また「歴史にイフはないが、もし建議書が江戸に届いていたら・・・」との表現は誤解を生みます。

建議書類の現物は、盗難事故により遅れたものの、大塩父子自決の一〇日以上前に幕府に届きました。しかし秘密裏に処理され、幕政改革に結びつくことはありませんでした。「もし建議書に込めた大塩のこころが幕閣に届き、改革が実行されたなら、大塩父子も本懐を遂げて自決したことになるのに」「その心中は絶望だったろう」というのが藪田会長発言の趣旨です。(内田)


◇住吉と天満の御文庫と大塩平八郎
 大阪の代表的な古社である住吉大社と大阪天満宮には江戸時代中期から大阪の書籍商が初版本を奉納するという、現在の国立国会図書館と同じような仕組みがあり、その収納場所としての「御文庫(おぶんこ)」がそれぞれ現存している。

 五月二二日と二五日の朝日新聞夕刊の『大峯伸之のまちダネ』という連載コーナーでその紹介をしているが、その中に大塩平八郎について触れた部分があるので転載する。

 (五月二二日・住吉大社)「御文庫に収蔵されていた本は、江戸幕府の禁書となった陽明学者の大塩平八郎著『洗心洞劄記』、幕末に米本土に渡り帰国したジョン万次郎の取り調べ記録『漂巽紀略』をはじめ、約五万冊にのぼる。」

 (五月二五日・大阪天満宮)「大阪天満宮でも一七三〇(享保一五)年、天満文庫講という組織ができ、そのころ御文庫が建った。(中略)だが一八三七(天保八)年、大塩平八郎の乱で御文庫の建物と蔵書は焼失した。現在の建物はその後にできた。」(傍線は編集部、大峯伸之氏は朝日新聞社・社会部記者)


◇大塩はんの刀鍛冶
 四月一一日読売テレビ番組「あさパラ!」の天神橋筋商店街を巡るコーナーで、同三丁目の水田國重本店が紹介され、水田裕隆氏(七代目・現当主の水田雄一朗氏のご子息)が包丁などの製品の説明に加え、二代目、三代目店主が大塩平八郎の刀を作っていたことを述べたシーンが放映された。

 同店屋外の展示ショーケースには「大塩平八郎の愛刀」として、その刀の写真が刀匠に関する資料とともに展示されていて、謂わば「まちかど博物館」の観を呈している。大塩平八郎が大阪市民に身近に感じられている例証でもある。近くに来られる機会があれば是非ともご覧いただきたい。

 この刀は『門真町史』(昭和三七年刊)によれば、大塩一党の高橋九良右衛門が乱に参加した際使用したものであるという。また、水田雄一朗氏は『天満人』第二号(平成一五年発行)の「大塩はんの刀鍛冶」で國重本店の由来、大塩平八郎との交流などを語っている。


◇大丸と大塩平八郎
 二〇一五年七月五日読売テレビでクイズ番組『クイズ!アナドレナイ大阪』が放映された。これは大阪市内及び近郊の企業をマイクバスで廻りながら車中でその企業に関するクイズを出題し出演者から回答を得るという趣向の番組である。

 四番目の出題は、「大塩平八郎の   に対する愛情がアナドレナイ!?」というものだが、皆様は   の中には何が入ると思われるだろうか。

 答えは「大丸」。『大丸二百五十年史』によれば、大塩は「大丸は義商なり、犯すなかれ」と部下に命じたという。大丸の創業時からの社是は「先義後利」、つまり「義を果たしたあとに利がついてくる」というもので、ナレーターは「『掛け値なし』などに見られる公平な商売が大塩の心に響いたのかもしれない」と結んでいる。

 番組には、本会会長の藪田貫氏がビデオ出演で登場、人と人の信頼関係=義を重視した大塩には義に厚い商人と厚くない商人が見えていた、また可能性として、大丸と共鳴し合える関係があったと思うとコメントを寄せている。


◇テレビ番組の劇中劇に大塩平八郎が登場
 四月二一日NHKテレビで放映されたドラマ『美女と男子』第二回「大物新人、誕生?」の劇中劇に大塩の乱が取り上げられていた。

 仲間由紀恵扮する主人公はIT企業のキャリアウーマンだが、ある日突然グループ会社の弱小芸能プロダクションに出向を命じられてしまう。エリート意識満々の主人公は、全てが未経験のことばかりで戸惑いの日々を送るが、自身でスカウトした男優を売り出すために奔走、時代劇のオーディションには落ちるものの、そのエキストラに潜り込ませる。その時代劇が大塩の乱である。

 名高達男扮する大塩平八郎が橋の上で役人相手に「大立ち回り」をする背後で、乱に加わった農民が豪商の蔵を襲撃、略奪をするシーンが続いていた。劇中劇の性格上、ドラマのストーリー展開とは直接関係はない場面ではあるが、深読みを許してもらえれば、大塩の乱がこれから起こるであろう主人公たちの数々の困難を隠喩しているのかもしれない。


◇「大塩平八郎の娘・その謎」
 古書市で求めた、脇哲『物語北海道人物誌』(沖積舎一九八一年)の中に「蝦夷流離譚 大塩平八郎の娘・その謎」という章があった。大意は次のとおりである。

 乱の後、大塩平八郎の娘・チヨは越後から北海道の江差に逃れ、同地の分限者・関川与左衛門の庇護を受けた。それから二五年後、江差を訪れた俳諧師・多胡無外は関川家に逗留するが、その際に「大塩平八郎の娘」というチヨに引き合わせられた。二人は結ばれるのだが、正式の入籍は慶応二年(一八六六)という。そして多胡はこれより大塩姓を名乗り、維新後は開拓使函館支庁会計課勤務ののち、函館公園看守、函館八幡宮主典を経て、明治二六年に没している。

 肝心の「娘・チヨ」について著者は「資料は全く乏しい」としながら、格之助の妻である「みね」ではないかという推論を最後に披露している(推論の過程は省略する)。著者はHBC(北海道放送)出版事業の担当課長(当時)。全般に唐突感は否めないが、夫である多胡の経歴などが妙に詳しく現実味があるのでここに記しておく次第である。


◇ソーシャルゲームの大塩平八郎
 ソーシャルゲームのカードに大塩平八郎がキャラクターとして登場しているという情報をいただいた。ネットで当たってみると確かに「大塩平八郎」となっているものの、劇画風で、嫌な言葉だが「イケメン」の若侍が描かれている。残念ながらここに画像を掲載するのは著作権上リスクがあるということなので、ご覧いただけない。

ソーシャルゲームとはパソコンやケータイ(携帯電話のこと)で、SNSを通じて、複数のプレーヤーとコミュニケーションを取りながら楽しむというオンライン上のゲームである。

この大塩平八郎のカードは、『疾風幕末演義』というゲームで使われる「志士」のひとつである。ゲーム内で用いるカードは「物語」で入手可能だが、自分の「志士」を強力にしようと思ったら、別途カードを抽選で購入しなければならない(カプセルトイに似ているので「ガチャ」と呼ばれる)。カードを増やすことにより、志士は「進化」・「強化」することができ、また知り合いと「志士隊」を結成することもできるなど、ゲーム自体が際限無く拡がっていくため高額な課金がされることのないよう注意が必要である。なおカードと言っても、仮想的なものであるから手に取ることができる訳ではない。

以上の編集子の拙い説明でよくわからない方は若年層の知り合いの方にお尋ねすることをお勧めしたい。説明の過誤、不足についてはご寛恕願いたい。


◇木更津古文書サークル
 四月中旬、同会の新沼三正氏から電話を頂き、勉強中の『檄文』が一部抜けており、全文と翻刻文の購入依頼があった。

偶然ではあるが、「大塩の乱関係資料を読む部会」も丁度『檄文』を自主学習中で何かの縁を感じた。

乱当時上総・貝渕藩(請西藩)の藩祖・林肥後守忠英が若年寄の時代であり、大塩平八郎にも関心が深い由。(内田)


◇長谷川先生を偲ぶ会
 本会顧問、「大塩の乱関係資料を読む部会」の講師であった、故長谷川伸三先生の一周忌法要と偲ぶ会が六月七日に行われた。

 会場は先生が発掘・古文書の翻刻に関わった奈良市の璉珹寺(紀寺)。奥様、大阪樟蔭女子大学佐久間貴士教授、教え子、本会から藪田会長他四名など二十名ほどが参加し、在りし日の先生を偲んだ。

 また、長谷川先生らの研究の成果を記録した、『奈良市璉珹寺の歴史と下間家文書目録』の発行が披露された。                      (内田)


◇会員の動静

 島田耕氏は、映画監督として活躍中であるが、この度ドキュメンタリー映画『Report びわ湖赤野井湾 2015』が二年を経て完成した。本映画は本誌七十一号の本欄でも紹介させていただいたが、琵琶湖で最も水質が悪化している赤野井湾(守山市)の現状を伝え、再生にむけていくつかの問題を提起した作品(六七分)である。

 本映画を心待ちにしていた有志が実行委員会を立ち上げ、七月二六日にその完成試写会がライズヴィル都賀山(守山市)にて盛大に開催された。


◇会員の訃報

鈴木 良氏 二〇一五年二月一六日肺炎のため東大阪市の病院で逝去。享年八〇才。本会には二〇〇七年三月入会。元立命館大学教授。歴史科学協議会代表委員、部落問題 研究所理事など歴任。著書に『水平社創立の研究』(二〇〇五年部落問題研究所)など。本会の運営に種々ご協力をいただいた。(久保)

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洗心洞通信60号(大塩研究72号) 2015年2月

洗心洞通信(六〇)


七月例会

 七月二六日成正寺において例会が行われ、淀屋研究会副代表の蒲田建三氏から「「天下の台所大坂」の礎を築いた「淀屋」」と題して講演いただいた。

 冒頭、淀屋橋南詰西側にある「淀屋の碑」について、「往時の橋上の賑いの様子がレリーフで描かれているが、牛車で米俵を運んでいるのは首を傾げざるを得ない。当時は橋を傷めないよう荷物を降ろして運んだ」という指摘があった。シンボル的に描いているのかもしれないが、やはり恒久的な記念碑であるので厳正な記述が相応しいと感じた。

 次いで文化三年(一八〇六)の『増修改正・摂州大阪地図』に基づき、淀屋並びにその周辺の地理を解説され、堂島米市場や淀屋橋、淀屋小路などの位置確認をしたうえで、淀屋初代常安から始まり宝永二年(一七〇五)闕所・所払となる五代広當までの家系図を分家も含めた解説があった。続いて淀屋の業績(中之島開発、青物市、米市、糸割符制など)について触れ、さらには二代言當の事例を挙げ、文化人との交わりを通じて大きな貢献をしたことが述べられた。

 淀屋の闕所は門閥的な初期特権町人から新興町人への交代を象徴する事件であり、これ以降鴻池・住友・三井などの新興町人は「拡大よりも安定」、「攻めの経営よりも守りの経営へ転換」、「経営の多角化よりも一業専心を徹底」するようになっていった。

 但し、四代重當は幕府の動きを察知しており、闕所となる前に番頭・牧田仁右衛門を故郷である倉吉に帰し、「牧田淀屋」(米屋)を名乗らせている。そしてその子孫(仁右衛門の曾孫)が大坂・淀屋橋に進出し木綿問屋を開店、初代淀屋清兵衛と称している。江戸時代を通じて連綿として続いてきた豪商淀屋の数奇な歴史に多くの受講者が興味を覚え、続編の次回開催を望む声が多かった。

 尚、大塩平八郎の乱は四代目淀屋清兵衛のときに発生しているが、『大坂焼失後町人施行人名並出金高』(類焼者への施行銭)の中にその名がある。(銭五〇〇貫文を施行)

 

当日の参加者は、有光友昭、井上宏、内田正雄、奥村勇、奥村喜一、毛糠秀樹、北村静子、齋藤正和、柴田晏男、志村清、白井孝彦、神藤勵、辻不二雄、亭島吉秀土井裕子、橋山英二、福島孝夫、山口五十二、山崎弘義、藪田貫計二〇名


九月例会(フィールドワーク)

 九月二八日フィールドワーク「大塩平八郎ゆかりの史跡上町台地を歩く」を実施した。案内役は本会会員の志村清氏にお願いし、総勢二〇名、集合場所の大阪市営地下鉄谷町線・谷町六丁目駅を一三時四五分に出発した。空堀商店街を東に抜け、最初は坂本鉉之助屋敷跡へ。坂本は大塩平八郎と親交を結んだ人物で、乱当時玉造口与力で乱鎮圧に功があった。現在は公園となり往時を偲ぶものは何もない。
 続いて鉄砲同心屋敷・牧田家に向かう。現在も子孫が居住されていて、時代とともに改修はされているが、往時の面影がよく残っている。六代惣衛門は長興村(現・豊中市)の火薬庫(二〇一二年一一月例会フィールドワークでその跡地を見学している)の警備に出勤し、七代茂兵衛は御用向見習中であったが、乱鎮圧に出勤、大塩方へ銃撃発砲したとのことである。この付近は五十軒屋敷と呼ばれ鉄砲同心屋敷があったところで、志村氏の用意された古写真、古地図を見ながら現況との比較説明を聞くと頭の中に往時の街並みが蘇ってくるようで楽しい。

 続いて全慶寺(城南寺町七丁目)で佐々木春夫の墓に詣でる。大塩門人で、国学者、豪商で猫間川浚渫・開削工事への尽力、天誅組への資金援助で知られる。そこから近くの龍渕寺(城南寺町六丁目)にも同じく大塩門人の秋篠秋足の墓がある。現在は保存のためガラス張りのケースの中に入れられているが、その墓碑に刻まれた碑文で有名である。曰く、大塩平八郎父子は天草から清国へ渡り、最後はヨーロッパまで逃亡したとのこと。所謂「大塩生存説」のひとつである。

 上町筋を渡り、谷町筋を右折した交差点付近は大塩格之助の実家・西田家の墓所があった本照寺跡である。寺は戦災で焼失後、昭和四三年道路拡張に伴い八尾市黒谷へ移っている。谷町筋を渡り少し行ったところにある妙徳寺には海運業で一世を風靡した海商・西村忠兵衛の墓がある。西村は大塩平八郎に傾倒していたという。(詳しくは西村道男『海商三代』中公新書を参照いただきたい)

 そこから南へ下った禅林寺(中寺二丁目)では門人・田結荘千里の墓と「千里先生碑」(藤沢南岳顕彰文)、少し先の大倫寺(中寺二丁目)では坂本鉉之助の墓と「剛毅君之碑銘」(並河鳳来顕彰文)にそれぞれ詣でた。終了予定時間が過ぎ、生国魂神社を右に見ながら、最終目的地である、大塩の愛弟子・松本乾知の墓のある銀山寺に着いた時には閉門となっていたため、一七時一五分、そこで解散となった。

 志村氏の豊富な知識量に驚き、且つ感心しながらの四時間のウォーキングであった。出席者は一様に満足の面持ちで家路についた。因みに参加者の方の万歩計によると当日の総歩行数は約一万三千歩とのことであった。


当日の参加者は、井上宏、上島朱實、内田正雄、金森茂基、紙谷絹子、喜多冨佐子、木村雅英、柴田晏男、志村清、荘茂樹、滝浦登美江、竹村恵子、辻不二雄、土井裕子、中村文韶、二星正樹、二木貴久、水嶋裕子、山崎弘義、吉田昭雄計二〇名

(注)上記以外にも多くの史跡を訪ねたが、紙面の都合上、大塩事件に直接関係のないものについては省略させていただいた。諒とされたい。


一一月例会

  一一月二九日成正寺において例会が行われ、菅良樹氏(淳心学院高等学校)から「大坂城代就任者の基礎的考察天保期の土井利位、嘉永・安政期の土屋寅直の事例を中心に」と題して講演いただいた。

内容については本号掲載の同氏による「大塩事件に対処した大坂城代土井利位と戊午の密勅降下に関わった同土屋寅直」を参照いただきたい。


当日の参加者は、井上宏、内田正雄、小川治海、奥村勇、金森茂基、紙谷絹子、北村静子、澤田平、柴田晏男、白井孝彦、志村清、神藤勵、末廣訂、辻不二雄、土井裕子、二星正樹、橋本暁三、前田実、松浦木遊、村家晃、薮田貫、山口五十二、山崎弘義計二三名


大正期警察官僚の大塩観

 第一次大戦に伴う物価上昇が著しく、これに乗じて暴利を貪る商人らに対し内務省と農商務省は「売買取締令」を、一九一七(大正六)年九月一日付で公布し即日施行された。この取締の陣頭指揮に立つ大阪府の道岡警察部長は、『大阪毎日新聞』(一九一七年九月一日夕刊)の取材に対し、次のように述べた。(一部抜粋)

「此度の新令は国民の生活と重大の関係を有()つてゐるのだから監督当局者は犬の遠吠のやうな生温い手段でなく素面素小手の真剣で斬込んで行かねばならぬ、昔大塩平八郎の行()らうとした事が今日実現されたのである、平八郎を出した大阪において此新令は最も有効に行はれたいと考へる」

現職の高い地位にある警察官僚が、大塩を義人、乱を義挙と評価している点が注目される。(久保)


「なにわ大坂100人選(仮称)プロジェクト」

 公益財団法人関西・大阪21世紀協会は上記プロジェクトを発足、古代から近世にかけて「なにわ大坂」を築いてきた一〇〇人を選抜し、時代背景含めた情報収集を行っている。単なる業績紹介に留まらず、対象人物に関する調査、資料収集、関係者へのヒアリングなど精力的に取り組んでいる。

 大塩平八郎もそのうちの一人に取り上げられている。大塩に関する調査、執筆担当は、橋山英二氏(一般社団法人映像通信・代表理事)であるが、氏は既に本会例会や大塩の乱関連資料を読む部会にも数回取材のため参加されている。

プロジェクトの活動成果は適宜ホームページなどで発信され、最終的には二〇一七年に出版される予定とのこと。今から楽しみな企画である。


井形正寿氏の反戦への思い

 東京新聞二〇一五年一月五日朝刊一面の特集「戦後の地層」・「覆う空気悪しき平和なし」で、長らく本会副会長を務め、二〇一二年七月に亡くなられた井形正寿氏が取り上げられている。井形氏は戦時中の一時期、八尾警察署特高係に勤務し、敗戦直後に焼却寸前の特高資料のうち反戦に関する手紙や葉書の資料を密かに持ち帰り、それらと自身の経験を基に、『「特高」経験者として伝えたいこと』(新日本出版社二〇一一年刊)を上梓されている。

 記事では、井形氏の特高時代の経験を述べるとともに、同氏をよく知る島田耕氏(本会会員)がインタビューを受け、「(井形氏が)あの時代に戻しちゃいけないという一念で語り続けていた」と振り返り、「自分を犠牲にして巨大な幕府権力に抵抗した。大塩事件が私の人生を変えた」と熱弁を振るっていた様子を語っている。

 また最後に、井形氏のドキュメンタリーを撮りたいという島田氏の申し出について触れ、記事は次のように結んでいる。

「一度、本人に断られたが、島田にはちょっぴり未練もある。社会派の作品が影を潜めてしまった今だからこそ。」(島田耕氏からの情報提供)

追記後日、島田氏より知人からほぼ同内容の記事が中日新聞・名古屋版、滋賀版にも掲載されているとの連絡があった旨、報告とともに同紙滋賀版の写しを送付いただいている。


飯嶋和一『狗賓童子の島』

 大塩事件に連座した門弟西村履三郎の長男常太郎が隠岐に流刑され、やがて幕末の隠岐騒動に参加したことを明らかにした森田康夫氏の一連の研究を下敷きにした歴史小説がまた発刊された。飯嶋和一著『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』(小学館、定価二三〇〇円)がそれである。

 帯封の解説によると弘化三年、日本海に浮かぶ隠岐「島後」に、はるばる大阪から流された一人の少年がいた。西村常太郎一五歳。大塩平八郎の挙兵に連座した父履三郎の罪により、六つの歳から九年に及ぶ親類預けの果ての「処罰」だった。

 翌年、一六歳になった常太郎は、狗賓が宿るという「御山」の千年杉へ初穂を捧げる役を、島の人々から命じられる。下界から見える大満寺のさきに「御山」はあったが、狗賓にゆるされた者しかそこに踏み入ることはできなかった。

 この天狗出現の物語は、すでに常太郎が維新の恩赦で隠岐から帰国した時、父履三郎の汚名をそそぐため、当時在阪の文士であった宇田川文海に語るなかで生まれた『浪華異聞・大潮余談』に述べられていた。何れにしろ本書は常太郎を軸として展開された歴史小説として『大塩研究』としても極めて興味深いものがある。


◇飯嶋和一氏の大塩観

 『読売新聞』(二〇一五年二月二日夕刊)に以下の記事が載った。

「森鴎外の「大塩平八郎」などを読む中で、この乱を突発的なものととらえる視点に違和感を抱いたのだ。」(中略)「当時は生存権という言葉はなかったけど(大塩の乱は)それを代弁したようなものだったのではないか。大塩の檄文がそこら中から出てくるのは、全国的にそう思う人がいたからだろうと」。「当時の人々が持っいた思いを普遍的に描く。そのために選んだ舞台が隠岐だった」。(久保)


◇新聞記事・成正寺と大塩平八郎

 産経新聞の二〇一四年一〇月一五日朝刊北摂版の連載『北摂街道を行く33・高槻(亀岡)街道編』に天満東寺町が取り上げられ、「偉人が眠るあの寺この寺」と題し、三ヶ寺の紹介記事が掲載された。うち一ヶ寺は成正寺で、大塩の乱の概要について触れるとともに、「中斎大塩先生墓」、「大塩格之助君墓」及び「大塩の乱に殉じた人びとの碑」が本堂の写真と併せて紹介され、「民衆の味方・大塩平八郎ファンの墓参が絶えない」と結んでいる。

 また本会会員である成正寺・有光友昭氏が顔写真入りで登場、「大塩親子の墓前には、中学生ら若い人の姿も見かけます。『寺町通り』を散策しながら、大阪の歴史を大いに勉強してほしい」と述べている。


◇安積艮斎(あさかごんさい)‐幕末、英才育てた開明の人

 日本経済新聞二〇一四年八月二一日朝刊「文化」欄に安積国造神社第六四代宮司・安藤智重氏による安積艮斎の紹介記事が掲載されている。安積国造神社は艮斎の生家であり、艮斎の父は第五五代宮司である。

 筆者は「艮斎は柔軟性に富み、時代への適応性を重視した開明思想の持ち主だった」といい、朱子学を主としながらも、「他学派でも善い点は認めるべきだ、と記した文章も艮斎は残しており、陽明学などを積極的に摂取。実学を重視した」と述べている。標題の「幕末、英才育てた開明の人」の通り、多くの人材を育てた功績に触れ、門人として、小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、岩崎弥太郎、福地桜痴、前島密など蒼々たる顔ぶれを挙げている。

 筆者は艮斎の著作の現代語訳にも取り組み、これまでに『艮斎詩略』、『艮斎文略』を刊行している。また、文中では触れていないが、本会会員の齋藤正和氏との共著『東の艮斎 西の拙堂 対談』(歴史春秋社二〇一二年)も上梓している。


◇『
express』誌の大塩平八郎

 セゾンカードの会員誌『express』二〇一四年一一月号の「賢人の選択」という欄に、泉秀樹(歴史作家)の「大塩平八郎」というエッセイが載っている。大塩を「直参旗本の家柄である」などと首を傾げざるを得ない筆致ではあるが、乱の概要について一通り触れたのち次のように結んでいる。

 「いまの日本は、このままで、いいのだろうか?現代の日本人は、江戸時代の庶民と比較すると、変におとなしすぎはしないか?誰もが、臆病に、事なかれ、と願いつつ、反乱に同調できはしないが、無意識のうちに、平八郎のような激烈な正義の男の、不穏な訪れを待っているような気が、しないでもない。」


近藤重蔵と大塩平八郎の出会い(続報)

 前号本欄で近藤重蔵と大塩平八郎の私的な交流について述べたが、「左遷人事」により大坂に赴任した近藤重蔵の前後の事情については、二〇一四年四月に刊行された、谷本晃久『近藤重蔵と近藤富蔵』(山川出版社・日本史リブレット)で簡潔に描かれており知ることができる。

 また近藤重蔵の大坂御弓奉行としての日常は本書によれば「文字通り城内の弓矢や槍の維持管理であり、重蔵の学知を必ずしも必要とする役務とはいえず、また、それをいかした功績を示す場ともいえなかった。」「よって、大坂時代の事績として語られるのは、勤役に関連するものは皆無である。大阪東町奉行の組与力であった陽明学者大塩平八郎をはじめとする文人と盛んに交友をなしたり、(中略)いずれも私事に発するものである。」想像を逞しくすると、近藤重蔵と大塩平八郎はお互いの鬱積した思いを語り合ったのかもしれない。

 その後、近藤重蔵は「重ねた先例を逸脱した異例な振舞いは公儀の忌避するところとなり、「御役不相応」を理由に役儀が召しあげられるにいたった」。重蔵の大坂勤役は二年に満たなかった。


大塩平八郎の乱と今治藩

 旅行先で書店を覗き、地方出版の書籍で自身の興味のあるものを入手することも旅の楽しみのひとつであると、以前何かの本で読んだ記憶があるが、愛媛県今治市の今治城の売店で求めた『今治城の謎』(土井中照著、メイドインしまなみ事務局二〇〇三年発行)に、「大塩平八郎と今治藩」という一頁の記述があった。乱の概要について触れたのち、「今治藩へは、事件の平定に加勢したことへ、大阪城代から感謝状が寄せられています」と結んでいる。

 この件について、同市出身の谷田茂氏(現在はマレーシアに居住)より、『今治郷土史今治拾遺資料編近世(第三巻)』(今治郷土史編さん委員会編集、一九八七年発行)に次のような出典と思われる記述がある旨教示いただいた。(注・文中「同年」とは「天保八年」のこと)

 一、同年二月十九日、大坂天満与力大塩平八郎父子、其外結党大坂市中火矢ヲ以焼拂、鉄砲打立人ヲ拂及乱妨、行衛不相知相成、人相書ヲ以御尋有之、全町御奉行ヲ恨候ヨリ事起候由、御蔵屋敷ヨリ、御防御人数被差出候、

 一、同年四月廿日、大坂御城代様ヨリ、御留守居御呼出、当二月十九日於大坂、元与力大塩平八郎放火乱妨之節、御人数被差出、骨折候旨御達有之、


湯川麑洞(げいどう)と福田世耕

 以下は九月度例会に参加された荘茂樹氏(大阪府枚方市在住)よりいただいた情報である。

荘氏の家系は香川県観音寺市にあって代々医業に携わってきたが、祖父・荘豊之祐氏は医業の傍ら漢詩を嗜み、多くの漢詩人との交流があり、自宅は漢詩人たちのサロンとなっていたようである。

 最近、氏が実家の整理をしていたところ、漢詩人グループの中で特に親しくしていた福田世耕からの祖父宛の書簡(昭和六年三月十七日付消印)が見つかり、その内容は福田世耕が所蔵する三幅の購入についての打診であった。そのうちの一幅が湯川麑洞の画幅である。書簡には、「湯川麑洞大塩義挙の際塾頭タリシ人水野侯ノ儒医墨竹半切」(傍線・筆者)とある。

 湯川麑洞は『大塩研究』でも度々取り上げられている、和歌山県新宮市出身で洗心洞の都講(塾長)を務めたが、乱の前に郷里新宮へ戻り、難を逃れた人物である。書簡の差出人の福田世耕も同じく新宮の出身で、早くから漢詩人として名を成し、また正岡子規に学んだ俳人でもあった。湯川と福田との間に直接交流があったかどうかは不明であるが、共に新宮の生まれであり、福田世耕にはある種の共感があったかもしれない。

 尚、荘氏によればこの画幅を祖父が購入したかどうかは不明とのことである。


◇杉中浩一郎氏の著書

  永年にわたり本会会員であられた同氏(和歌山県田辺市在住、九二歳)がこのほど『南紀・史的雑筆』を出版された。すでに多くのご著書を出されているが、「ここ三、四年の間に執筆した地方史関係の雑文を主として、以前発表した「稲むらの火をめぐって」などのように、既刊の著書に収録しなかった数編の分をつけ加え」てまとめられた。成石勘三郎の南方熊楠宛の書簡など興味深い論考も紹介されている。お問い合わせは同氏(〒六四六‐〇〇二一田辺市あけぼの四一―五)まで。(久保)


◇NHK学園「古文書講座」教材

 『大塩研究』第三六号(一九九五年一一月発行)にNHK学園「古文書を読む」講座の教として「檄文」のはじめの部分が出題されている旨報告があったが、二〇一四年度受講生の「古文書を読む」基礎コース・第八回レポートでも教材として使われているとの情報が寄せられている。

 また、同講座の機関誌『古文書通信』(第一〇三号・二〇一四年一一月発行)の「古文書ネットワーク・あなたの声」欄には、大阪府在住の受講生から「大塩平八郎檄文を見て、大塩平八郎と守口の白井家が繋がりました。(後略)」との感想が掲載されている。大塩平八郎と檄文に対する根強い関心の深さが窺われる。


◇小林一茶の「世直し」観

 本会会員で二〇一三年七月に急逝された青木美智男氏の遺著『小林一茶』(岩波新書二〇一三年九月刊)は文学的な観点ではなく、歴史学的な観点から一茶の残した句を丹念に論じたものであり、従来の「慈愛に満ちたお爺さんというイメージ」からは、かなり距離を置いた一茶像が浮き彫りにされている。(従来の一茶像は明治期以降に作られたものであるという)

 著者は、「世直しの竹よ小藪よ蝉時雨」という句のように「世直し」という、当時としては「物騒な言葉を、こともなげに句に詠み込んでしまう(一茶の)大胆さに驚かされる」と述べ、また一茶は当時頻発していた打ちこわしにも関心を持っていて、その原因は遺恨による簒奪や暴力ではなく、「社会の混迷にある」と気づいていたと指摘している。そして、「一茶の世直し観は、基本的には「世が直る」と受動的で、自然まかせであるが、一茶にとっては毎年起こる社会不安の連続のなかで、日常用語化していったようだ」と結んでいる。

 終生「庶民とともに生きた一茶ならではの眼差し」とともに「権力や権威に対する反骨精神」を持ち続けた、「新しい」一茶像を知るために一読をお奨めしたい。


大塩平八郎と二宮尊徳

 前号の本欄で「大塩平八郎は身長二一三CM?」というネット情報を紹介したが、その後、同様の問い合せが東京のテレビ局から本会に入っている。テレビ局の質問の出所は定かでないが、雑多な情報の飛び交う現代社会の一面を垣間見たような気がする。

 今回紹介するのは、「YAHOO!知恵袋」上の質問で「江戸時代後期の物語を描くとして、大塩平八郎と二宮金次郎が出会っているという設定はメチャクチャでしょうか?」というもの。回答は一件のみで、要約すると「面識はないが、乱後に二宮は大塩のことを知って興味を持ち、その政治的意味や意義を尋ねる書状を大坂の知人に出している」ということであった。(いずれも二〇一三年一〇月投稿)回答の真偽について編集子は不明であるが、ご教示いただければ幸いである。大塩平八郎と二宮尊徳は、同時代に西と東で、全く異なる手段により「救民」を実践した点に興味を惹かれる。

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