大塩ゆかりの地

2022年10月11日 (火)

大塩ゆかりの地をたずねて(13)「奥州仙台 大年禅寺」

『大塩研究』第八六号(二〇二二年三月発行)掲載の「それぞれの最期―大塩平八郎と同志たち―」(藪田貫会長)をお読みになられたでしょうか。大塩の乱関係者の逃亡過程と最期の時・終焉の地が丁寧に辿られているもので、その中の一人の人物が、今回の旅のきっかけとなりました。

それは「それぞれの最期」に記されている二十名のうち最後の人物して登場する弓削村七右衛門こと利三郎。乱の後大塩平八郎らと別れ、各地の知人を頼り、堺→伊勢→仙台→江戸と点々としたのち、江戸神田本町一丁目で病死します。

それを読んだ時、逃避行先に仙台という遠く離れた地が含まれていることに驚きました。もしかしたら「大塩ゆかりの地」の最北端かもしれません。そこで、利三郎が目指した奥州仙台《大念寺》を彼が奥州に着いた頃と同じ初夏に訪ねてみました。

仙台市の地図に「大念寺」は見当たらず、「大年禅寺」という黄檗宗の寺院がありましたので、そこを目標にしました。「大年禅寺」は仙台駅から南へ車で十分ほどのところにあり、東へ数百メートルのところを広瀬川が流れ、北西約三キロメートル先には青葉城があります。現地へ着くと、石段の上に立派な惣門があり、その向こう側にも長い石段が上へと続いていました。

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左:大年禅寺惣門                 右:惣門から続く石段

利三郎は、大塩没後にも生き残った三名のうちの一人で、義兄寛輔の叔父・投伍を頼り、はるばる奥州仙台《大念寺》までやって来るのですが、断られてしまいます。その後江戸の止宿先で病没、その地に埋葬され、関係者の中でただ一人、死後も大坂へ戻ることはありませんでした。

ここが《大念寺》であるとしたら、利三郎は、どのような気持ちで三百段近くあるこの石段を登り、そして、投伍に拒否されたあと、どのような面持ちで下ったのでしょう。往時に思いを馳せながら、この天空へと続くような石段を登ってみました。

現在ここは、大年寺山公園として地元の方の憩いの場となっているようで、早朝にも関わらず、何人もの人とすれ違いました。地元の方に話を伺うと、仙台に「だいねんじ」は他にはなく、《大念寺》は、ここ「大年禅寺」で間違いないだろう、そして、明治維新後、寺域は縮小されたことが案内板にも詳しく書かれている、と教えてくださいました。

その仙台市が設置した案内板を見てみると、次のようにありました。

「(前略)仙台藩四代藩主伊達綱村は隠元禅師が伝えた黄檗宗に深く帰依し、大年寺を一六九七年に創建し、伊達家の菩提寺としました。(中略)この地には二十余の塔頭を持ち、三百人からの僧を擁す仙台藩有数の大寺院があった。(中略)明治時代になり、時の政府による神仏分離・廃仏毀釈運動等で衰退し伽藍のほとんどが失われ、現在は墓所と大年寺惣門がその姿をとどめています」

かなり、壮大な寺院だったようです。残念なことに、案内板に大塩に関する記述はありませんでした。
石段を登った先の旧寺域に往時の面影はなく、伊達家墓所「無尽灯廟」のみがその姿をとどめています。そして、長い石段と伊達家墓所が今と同じ場所に描かれている「大年寺絵図」(享保十九(一七三四)年・仙台市博物館蔵)とともに、享保から大塩や利三郎の生きた天保、そして令和の時代を繋げてくれています。

新緑の中、ここに利三郎が訪れたのだ、との思いを強くし、奥州路の旅を終えました。

(山本珠美)

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2021年10月 5日 (火)

大塩ゆかりの地を訪ねて・第十二回「太閤(背割)下水施設」

 コロナ禍による大阪市の公共施設の開閉をホームページで確認していて、建設局下水道部からの左記のお知らせを目にした。

 「令和三年四月二六日から当面の間、新型コロナウィルス感染症の拡大防止のため、太閤(背割)下水施設見学を中止させていただきます」というものだ。『太閤(背割)下水』にも説明があり、

「豊臣秀吉による大坂城築城の天正十一(1583)年に原型が造られたと言われている石積の下水溝です。大坂がデルタ地帯にできた低地な土地であったので、道路整備と同時に町屋から出る下水を排水しました。東西の横堀川に囲まれ城下町は碁盤の目に切られ、道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘られました」

 太閤下水は、この度移設した「大塩平八郎終焉の地碑」の元の場所、天理教飾大分教会の裏(美吉屋五郎兵衛宅付近)にも続いている。

 『大塩研究第三九号』(一九九八年二月)に本会元副会長井形正寿氏の「大塩平八郎終焉の地について」という寄稿がある。この中で太閤下水にも触れ、建碑の場所(元・天理教飾大文教会)と美吉屋五郎兵衛宅跡(石本ビル、日紅商事)とは裏側の背割水道(太閤下水道ともいわれる)で接している。背割水道は当初、開渠であったものを大阪市は明治二七年の下水道改良事業の際に、石蓋で暗渠化し、今も幅二メートルの市道下に下水が流れ供用されている。

とある。

 これより先、『大塩研究第二五号』(一九八九年三月)に掲載された井形氏の「美吉屋五郎兵衛と大塩平八郎の関係」の中で次のように推測している。

 美吉屋は染物屋という職業柄、水を大量に使っており、排水に都合の良いように背割下水と建物の内部でつながっていたのではなかろうか。また美吉屋の東三百メートルに東横堀川、南二百五十メートルに阿波座堀川があって美吉屋の背割下水道とつながっていることから、この背割下水道が大塩父子の逃走、潜伏に大きな役目を果たしていたと考えられる。

 また、この推測には後日譚があり、同じ寄稿の中で大塩父子が西横堀川の川岸まで船で来て、川岸から開渠になっている背割下水にはいって、美吉屋に潜入したのではないかという話を新聞記者に漏らしたために、昭和六二年五月十九日付サンケイ新聞に『大塩平八郎“ 秀吉” が手助け?』『太閤下水通り逃走』と大見出し、七段抜きの記事となり報道された。

と書く。

 同紙には相蘇一弘・大阪市立博物館主任学芸員(当時)の話として、「十分考えられることだが、背割水道を明記した文献でも出てくればおもしろいのですが….」とある。

 私は寡聞にして、新しい文献が発見されたとは耳にしていない。また、井形氏自身も平成二十年三月に行なわれた、大塩事件研究会の特別講演の席で「太閤下水通り、大塩逃亡・潜伏」は先走り記事と話されていた。

 太閤(背割)下水は、前掲のように現在は見学出来ないが、コロナ終息後は実際に使用されているものを地上に設置した、のぞき窓から自由に見学出来るとのこと。

見学を希望の方は、事前の申し込みが必要。

 申込先  (財)都市技術センター

 電話    〇六―四九六三―二〇九二

 ファックス 〇六―四九六三―二〇八七

 所在地   大阪市中央区農人橋一―三―三

 交通    メトロ中央・谷町線 谷町四丁目駅から徒歩五分 

 見学    無料

 所要時間 約二〇分程度

                  (内田 正雄)

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2021年3月21日 (日)

大塩ゆかりの地をたずねて(11)「平野郷とどんどろ大師」

 大阪の平野は泉州堺のように、戦国時代前から規模は小さいが環濠に囲まれた自治都市であった。大塩事件鎮定にあたった大坂城代古河藩主土井利位は、この平野の地に飛び地の所領を持っていた。
 JR関西線の平野駅南側には古くからの民家や路地があり、その先の大念仏寺の甍を見ながら東に向かった。市立平野小学校辺りに古河藩陣屋が在ったらしい。同校正門前には陣屋跡の石碑が建てられている。来た道を少し戻り、大念仏寺の南門を訪ねる。これは古河藩陣屋の門を移築したもので、門扉は樟の一枚板で出来ているとのことである。私もこの門扉と柱に手を触れて、家老の鷹見泉石もここを潜ったのだろうかと当時を想ってみた。

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左:古河藩陣屋跡                   右:大念仏寺の南門

 玉造という街をご存知だろうか。大阪の人なら場所は判ると思うが、その名の謂れは古墳時代に勾玉を作っていたことによるらしい。私は戦国時代に鉄砲や大砲の玉を作っていたためだと勝手に思っていた。お恥ずかしい限りである。
 ここに土井家に縁の「どんどろ大師」と云う変わった名前の善福寺がある。しかし何故どんどろ大師なのか。土井利位の屋敷の隣に当時「鏡如庵大師堂(きょうにょあんたいしどう)」と言ったこの寺が在ったため、人々が「土井殿の大師」から訛って「どんどろ大師」になったと言う説がある。(牧村史陽編『大阪ことば辞典』講談社より) これは先日の大塩事件研究会例会で会員の方から教えて頂いたのだが、諸説あるようである。
 寺の山門を潜ると本堂の前に、土井氏と刻まれた古い五輪塔が残されている。歌舞伎「傾城阿波の鳴門」の一場面、「国訛嫩笈摺(くになまりふたばのおいづる)には、「どんどろ大師門前の場」が出て来る。同寺門前には有名な巡礼姿の娘おつると母お弓の像と銘板があった。「とと様の名は阿波の十郎兵衛、エエ、して、かか様の名は、アイ、お弓ともうします」は聞いたことのある様な・・・。

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左:どんどろ大師(善福寺)               右:娘おつると母お弓の像

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左:どんどろ大師境内                 右:土井氏と刻まれた五輪塔

(松浦信輝・本会会員)

( 『大塩研究』第84号 2021年2月刊 より転載)

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2020年9月 2日 (水)

大塩ゆかりの地をたずねて (10)「城下町古河と鷹見泉石」

大塩捕縛の指揮をとった、古河藩家老鷹見泉石と城下町を訪ねる。

 JR古河駅を降りて西に歩くと武家屋敷の面影を残す住居や日光街道古河宿の石碑に出会う。古河城は渡良瀬川を背にした平城で、三層の櫓があったそうである。古河歴史博物館・鷹見泉石記念館に向かう道すがら、古河第一小学校沿いに鷹見泉石生誕之地の碑を見ることが出来る。泉石は洋学蘭学に秀で、オランダ商館商館長ブロンホフよりダップル・ヘンドリックの蘭名をもらっており、碑には泉石のオランダ語での署名も刻まれている。碑の解説文には次のように書かれている。

「鷹見泉石 十郎左衛門忠常といい、泉石は引退後の名前である。天明五年(一七八五)六月二十九日、土井氏代々の家臣、鷹見忠徳の長男として、当時四軒町と言ったこの地に生まれた。十一歳より藩主土井利厚・利位の二代に仕え、ついには江戸家老に進み敏腕をふるった。とりわけ藩主利位の「大塩の乱」鎮定・京都所司代から老中への昇進と幕政参画など、その陰にはつねに泉石の補佐が与って大きかった。(中略)渡辺崋山筆、国宝「鷹見泉石像」はよくその姿を伝えている。(後略)
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 さらに南に歩き小道を入ると、木々や竹林が茂る古河歴史博物館と鷹見泉石記念館がある。同記念館は晩年を過ごした武家屋敷で、庭に竹林がある非常に静かな所であった。博物館では雪の殿様で知られる利位と泉石・洋学などの展示を見ることが出来る。市街に戻り北に歩くと泉石の墓がある正麟寺となる。墓域の中央に泉石の墓があり「故大夫鷹見泉石府君之墓」と刻まれ、その墓誌は漢学者の大槻磐渓の撰である。今でも墓には花と線香が供えられ大切にされている様であった。
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(松浦信輝・本会会員)

( 『大塩研究』第83号 2020年8月刊 より転載)

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2018年8月28日 (火)

大塩ゆかりの地を訪ねて(9) 「大塩平八郎と洗心洞・その界隈」

地下鉄南森町駅から国道一号線沿いを東へ十分ほど歩いた造幣局一帯は、江戸時代には一軒当たり五百坪もあった与力役宅が三十軒並んでいたということです。閑静で落ち着いた佇まいの屋敷町であったことでしょう。大塩平八郎は、こういう所で生まれ育ったのですね。

大塩の乱「槐」跡
P1030034b 造幣局北門前に、まだ若い一本の槐の樹が立っています。
当時ここには樹齢二百年の槐の古木が立っていて、乱で砲撃を受けて裂けたと伝わっています。
 今の若木は二〇一〇年に植樹されたものですが、この槐が太く逞しい大木に育つ頃までも、ずっとこの社会が平和であってほしいと願うばかりです。.
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与力役宅門
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 造幣局宿舎通用門から中へ入り、洗心洞跡碑をまずは通り越し、先に与力役宅門の前に立ち、大塩さんの普段の出仕の様子・講義の模様や二月十九日の物々しく緊迫した様相などに思い巡らせました。
  現在残っているのは、東町奉行与力・中嶋藤内宅のものですが、間口が六~七間ほどの重厚な長屋門です。.
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洗心洞跡
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 役宅門裏側の宿舎の一角に、その碑が建っています。
  平八郎は、ここにあった北向きの役宅に住み、与力として活躍しました。
  養子格之助に家督を譲り、隠居してから私塾「洗心洞」を開き、「万物一体」の仁を説きました。
  「入学盟誓八ヶ条」によれば、かなり厳しい教育であったと思われます。
 しかし、あれほどの重大な事件に、多くの門弟が血族の禍も顧みずに付き従ったのですから、やはりその学問探求の姿勢や人柄に、人間的な魅力あふれる人物であったに違いない、と感じました。.
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川崎東照宮
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 洗心洞跡の南、滝川小学校の敷地に乱の時に類焼したと伝わる「川崎東照宮」があったそうです。今は正門前に碑があるのみです。
 本会会員・志村清氏作成の「大阪天満川崎東照宮絵図」によれば、三重の門を厳重に構え、本殿・幣殿・拝殿があり、北西角に勧行堂、南東角には能舞台も設置されていた広大なお宮だったようです。
  又、南門入ってすぐの桜林について「摂津名所図会」には「御例祭四月十七日。此日雑人の参詣を許し給ふ。社頭櫻花多くして、彌生の美艶嬋娟たり」とあり、美しい桜にさぞ人々は賑やかに浮かれたことでしょう。
  話は逸れますが、桜林の西に映画「のぼうの城」で一躍有名になった、埼玉忍藩の蔵屋敷があったそうです。
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. 往時を偲び、多くのことを考えさせられた一日でした。
(土井 裕子・本会会員)

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2018年3月22日 (木)

大塩ゆかりの地を訪ねて⑧「能勢騒動-山田大助が辿った跡-」

 大塩の乱に刺激され一揆を起こした、山田屋大助の辿った跡を訪ねる。騒動に関係する地域は、ほぼ旧多田荘九万八千町歩、七郷七二村に相当する広範囲である。今回はほんの一部しか紹介出来ないが、今でも素晴らしい景観と歴史が残る地域である。

野間の大ケヤキ 
005b 旧蟻無神社(現野間神社)の境内にあり樹齢千年以上、幹囲が十三米以上。神木として保護され、今でも生長を続けている能勢町の樹木のシンボル。昭和二三(一九四八)天然記念物に指定される。大助等は、ここで山田村の粂蔵ら村人と合流・休憩の後、名月峠へ向ったと云われている。








杵の宮・岐尼(きね)神社
010b 能勢街道を少しはずれた山田町小部にあり、延喜式に記載されている。今は大きな木と小さな建物だけが残るが、周辺の自然と相まって、靜かで心地良い。
 祭神のひとつに多田源氏の祖、源満仲の多田大権現を祀るとある。大助は先祖が多田院の御家人であることを誇りに思っており、神聖な場所であった。この宮で大助が考え、今井藤
蔵に「各村各家別に一軒ごとに一名を今晩中に杵の宮に集合させよ」と書かせ、一夜の内に三一ヶ村に『廻文』している。この早さは多田院が御家人達に召し状を出し、至急の集結を呼びかけたことを大助が知ってのことか。


興福寺
019b 三田市木器(こうづき)の東部山地の山裾にある曹洞宗の寺院。高台にある本堂の眼下、見晴らしの良い田畑が広がる。裏の墓地の奥は深い山になっており山城のようだ。捕手方を見下ろせるこの寺を、大助は初めから知って拠点にしたと考えられる。
 立て籠った一揆勢は空砲で脅しを掛けられると悉く逃げ去る。後に残った首謀者三人は多勢無勢の状況下、壮烈な最期を遂げる。捕手方から打込まれた鉄砲玉の跡が残っていた本堂は焼失。数年前までは「能勢騒動」の案内板が境内にあったそうだか今はない。(内田正雄・本会会員)

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2017年9月10日 (日)

大塩ゆかりの地を訪ねて⑦「茨田郡士と大塩平八郎」

B 京阪電車西三荘駅から北へ10分ほど歩いたところに茨田公園(茨田邸跡)があります。
茨田家とはこの地で14代続いた旧家で、江戸時代には門真三番村の村役人を務める豪農でした。なかでも11代当主郡士は大塩平八郎の門弟となり、いまから180年前に起こった大塩の乱に参加しました。

 大塩と郡士との出会いは文政13年( 天保元年、1830)、守口の白井孝右衛門の紹介によって洗心洞に入塾したことに始まります。入塾後は大塩の信任も厚く、主要な門人の一人となりました。洗心洞の入学盟誓書には「冠婚葬祭に際しては必ず某(それがし…大塩のこと)に報告すること」との一文があり、大塩と門弟とが固い絆で結ばれていたことがわかりますが、郡士も自らの結婚や父の死去に際して大塩に報告し、大塩や洗心洞塾中からはそのたびに祝儀や不祝儀が届けられました。

 大塩の挙兵に際しては行動を共にしましたが、乱後は「このまま逃げ続けることは不可能だ」と考え、大坂城代土井利位の平野郷陣屋へ自首しました(当時、門真三番村は大坂城代の役知でした)。郡士の身柄は平野郷陣屋から大坂町奉行所へと送られ、厳しい取り調べがおこなわれました。この年は寒さが厳しかったようで、村からは郡士に布団と綿入れが差し入れられましたが、そうした厚情もむなしく、郡士は牢のなかで亡くなります。

 乱に関係した者への裁決は翌年8月に言い渡され、すでに亡くなっていた郡士はもとより、妻のぶは押込30日、茨田家は財産没収の処分を受けたのでした。
 厳しい処罰を受けた茨田家でしたが、郡士の甥である和久田徳五郎が家督を継ぎ、乱から10年を経た弘化4年(1847)、親戚にあたる北河内の豪農や村の庄屋などの尽力によって茨田家は再興されました。

B_2 現在では、写真に見るように茨田家があったことを示す石碑と、段蔵の石垣がわずかに残るのみですが、大塩と郡士の足跡を訪ねることができる、貴重な場所となっています。

(常松隆嗣・本会会員)

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2017年4月 3日 (月)

大塩ゆかりの地を訪ねて⑥「大塩平八郎門人と藤樹書院」

 JR湖西線高島駅を下車すると、そこは織田信澄の築城した大溝城の三の丸跡のあった所です。江戸初期の元和五年(一六一六)伊勢上野城より分部光信が城跡に二万石の大溝藩の陣屋を築きました。

大塩平八郎と藤樹書院(※)

Photo_2 大塩平八郎が初めて日本陽明学の開祖である近江聖人中江藤樹の藤樹書院を訪れたのは天保三年(一八三二年)六月です。門人松浦誠之、白井孝右衛門を引連れ大津より琵琶湖を船で、湖西の分部藩大溝(現・高島市)に入りました。中江藤樹の旧跡を訪ねる事は、大塩平八郎の長年の願望でした。
 書院を案内したのは藤樹先生門人志村吉久の末裔で、後に大塩門人となり大塩の乱に参加する小川村の医師志村周次です。当時、小川城主源秀康の子孫で、のち大塩門人小川秀則と共に書院番をしていました。秀則は大塩決起の情報を聞き、二、三日遅れて大坂に向かい、京、伏見まで来て事件の顛末を知りひそかに逃げ帰りました。それで秀則は事なきを得たのです。
 大塩は天保四年(一八三三)六月に書院へ「王陽明全集十四帙二十三冊を寄付しました。この全集は書院に伝わっており、九月、藤樹書院において陽明学の講義を行いました。大塩およびその門人達が書院修復の費用に十五両を書院に寄付しています。大塩平八郎が訪れた書院は明治十三年(一八八〇)九月二十六日類焼に遭い全焼し、現在は見ることができませんが、明治十五年に仮講堂が規模を縮小して建てられました。
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 藤樹書院には各地より参詣する著名な学者や門人も多く、伊藤東涯、佐藤一斉などが訪れました。藤樹の陽明学は大溝藩の教学に大きく影響を及ぼしました。大溝藩主分部光貞公、分部光謙公をはじめ、大塩平八郎と交流のあった人々も多く、大溝藩士前田小右衛門(梅園)名長畝、原田太仲、長野主税、恒河羽太、横田秋蔵、分部拡斉、大塩門人分部複(図書)など、多くの藩士がいました。
 平八郎の学風に共鳴していたため、天保八年に大塩が乱を起こすと、大溝藩は大きく動揺したようです。
 大溝藩内でも大騒動になって、大塩平八郎の書を蔵するものは、その咎めを受けることを恐れて焼き捨てたり、他所へ預けるなどして、全く鳴りをひそめてしまいました。

大溝藩と近藤重蔵

 大塩が与力の時、交流があり、大坂弓奉行を務めた近藤重蔵守重の墓所が、城下瑞雪禅院にあります。近藤は晩年、長男富蔵の殺傷事件で大溝藩にお預けになり、幽閉の身となり、大溝で亡くなりました。
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      (左図)大溝湊                   (右図)近藤重蔵墓所

(※)藤樹書院所在地:高島駅より北へ3km
各図をクリックしていただくと、拡大画像が出ます。

(志村 清・本会会員)

(『大塩研究』第76号 2017年3月刊 より転載)

次回 大塩ゆかりの地を訪ねて は
⑦「茨田郡士と大塩平八郎」です。

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2016年10月 5日 (水)

大塩ゆかりの地を訪ねて⑤「東海道五十七次 守口宿と大塩平八郎

 大阪天満橋から京阪電車で一〇分ほど、「守口市駅西口」を出るとすぐ目の前に「守居橋」という陸橋が見えます。この土手は太閤秀吉が築いた旧京街道の一部「文禄堤」で現在でも約七〇〇mにわたって残っております。歌川(安藤)広重の「東海道五十三次」(江戸日本橋~京三条大橋)が、有名ではあるが、実は元和二年(一六一六)京街道の「伏見・淀・枚方・守口」の四宿を加え、江戸日本橋~大阪高麗橋までを東海道とし五十七宿となったようです。

 「守口」の地名はもともと「森口」と表記されていたものが、大阪城に一番近い宿驛でお城の「守り口」として現在のような表記になったとも伝えられておりますが、それ以前から既に守口と呼ばれていたとの説もあり真偽のほどは不確かで
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 この街道を北に進み国道一号線と交わるところで枡形に右に折れたあたりが守口宿の中心で 本陣・問屋場・高札場等がありました。そこに大塩平八郎ゆかりの書院(門弟白井孝右衛門宅)がありましたが、今はその跡地に史跡碑・当時の書院の写真が建てられております。この書院で平八郎が北河内近郷の人々に陽明学の講義をしたと伝えられており、特に乱の前には頻繁にここを訪れたともいわれ、ここ守口でも乱の謀議がなされたのでは?ともいわれております。乱のときにはこの屋敷の松の大木を使って大筒を作ったそうです。また事件当日には守口近郷から二〇〇人近くの農民たちが参加しており、乱後多数の処罰者も出ております。

 この街道を一〇〇mほど進むと戊辰戦争後の慶応四年三月明治天皇大坂御親征時の行在所となった難宗寺があり、ここで京街道はまた左に折れ、少し進むと盛泉寺がありますが、ここには文政一三年大塩が内山彦次郎宛に出した書簡の原本が今も残されています。

 また、守口に隣接する門真三番村からは茨田軍次、般若寺村からは橋本忠兵衛などがでており、北河内のこの地域が大塩の乱に深くかかわっていたことが窺えます。
(白井孝彦・本会会員)

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2016年3月17日 (木)

大塩ゆかりの地を訪ねて④「八尾に西村履三郎の故地を訪ねる」

 河内弓削村(現・八尾市)の豪農で、洗心洞門人の西村履三郎は、天保8(1837)年2月9日に大塩平八郎から渡された施行札を村内で配り、天満で出火の際は駆けつけるよう呼びかけ、乱の準備をしたのち、その前日、2月18日に家を出て、洗心洞に入ります。

 乱当日は夕刻、大塩一隊は早くも敗走となり、大塩平八郎と別れた履三郎は姉ことの嫁ぎ先である堺の医師松浦貫輔宅へ向かいます。ここから履三郎の逃避行が始まります。履三郎は剃髪し僧形となり、貫輔の紹介で伊勢の海会寺へ行きますが、そこから仙台、江戸へと渡り、江戸で客死します。乱から3カ月足らずのことでした。乱に対する幕府の裁定は厳しいものでした。履三郎の江戸の墓は破壊され、屍骸は大坂まで運ばれ処刑されました。さらに土地没収、一家断絶に加え、2人の息子、常太郎、謙三郎についても15歳に到達したとき遠島に処され、後年それぞれ隠岐、五島列島へ流罪となりました。維新後、両名とも許され、再び弓削村へ戻り、一家を再興します。

◆履三郎の故地と墓域の現況2

西村履三郎の屋敷跡はJR関西本線志紀駅の南西徒歩7、8分のところで、現在も子孫の方が居住されています。そこから南に7、8分歩いたところの弓削霊園には息子常太郎が建てた履三郎・由美夫妻、母・十枝、松浦貫輔・こと夫妻など一族の墓がありましたが(右写真)、最近全て撤却され、新しい家族墓に変わりました。母・十枝の墓は履三郎の妻・由美によって建てられたものでしたが、その碑文には「哀女 西村由美」と刻まれていて残された家族の悲哀を語っているようでした。撤却された経緯、事情については不明ですが、気になるところです。

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◆妻・由美の観音堂 

履三郎の妻・由美は乱後出家しますが、維新後戻り、屋敷内に観音堂を建て冥福を祈りました。観音堂は屋敷跡の一角に現存しています(右写真)。履三郎を偲ぶことのできる遺構はこれだけになってしまいました。     (志村 清)


(「大塩研究」第74号 2016年2月刊 より転載)

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